そのようなことにはさせぬ、何が何でも死なせはせぬ、と憲雄は恃照を揺らし、頬を叩き、背を撫ぜ、耳元で叫び続けた。

「恃照、恃照!」

 憲雄は恃照を蘇らせんと動かす手を止め、胸倉を掴んだ。

「恃照、恃照。聞こえるか、わしが分かるか」

 堂入り前の相貌とは似ても似つかぬ、頬はこけ、髪も髭も伸び放題の僧が、気息奄々(えんえん)、ゆっくりと首を縦に動かした。

「あと十歩じゃ、わずか十歩じゃ。やれるな、やれるな恃照」

 恃照は小刻みに震えながらうっすらと微笑み、そして、今度は首を小さく左右に振った。

 憲雄は恃照の右腕を掴み上げ、自らの肩にそれをかけた。そして高僧らの方へ向き、頭を垂れた。

「お許しくだされ。あとわずかにござる。この者は最早十分にその身命を賭しましてござる。どうかお許しを、お許しを……!」

 憲雄は全身で愛弟子を支えながら祈念した。高僧らが互いに目を見合っているであろう姿が思い浮かべられた。

 だが、頭を上げるわけにはゆかぬ。認められるそのときまで、上げるわけにはゆかぬ――。

 恃照の表情からはもはや血の気と呼ばれるものは感ぜられず、あと数歩歩くことはおろか、三途の川を渡りきったような顔をしていた。

 ならばわしが歩く。わしが背負って歩いてやる――。

 もし恃照に意識あらば、師のその言入(いいいれ)を頑なに断ったであろう。

 が、憲雄はここは無理を通すところだと思った。

 この千日回峰も無理を通すところから始まったのだ。それが高僧らの頭に想起されれば、無慈悲な決断には至らぬのではないか。

 どれほど経ったろう。憲雄には数刻にさえ感じられた長き沈黙が破られた。

「憲雄」

 口を開いたのは、先ほど堂入りの証明文を読み上げた執行(しぎよう)であった。憲雄は閉じた瞼に思いきり力を込めた。

「ことは……重きに過ぎる。お座主さまのお指図を要するゆえ、沙汰を待て」

 憲雄は頭を下げながら、目と口の力を抜いた。しめたと思った。そして、一縷(いちる)の望みを懸けたそこへ引っかかったことに安堵した。

2025.09.22(月)