二人の頭を悩ます懸念とは、大きく三つあった。

 一つは、恃照が倒れたあの場のことである。

 あろうことか、恃照は叡山の僧らだけでなく、近隣の信者までもが堂内に入って真言を唱和する、その中で倒れた。事実を隠匿することに気をまわさねばならぬ。が、闇雲に言うな触れるななどと下手な沙汰を出すと、そこからさまざまなことを嗅ぎ取られるであろう。

 だが、これはさほど大したことではないと二人は考えている。人の噂も七十五日、一部始終を見ていたとは言え、その数せいぜい百人に満たぬ。どのような風聞が蔓延(はびこ)ろうとも、叡山が認めなければよいだけのことだ。加えて、恃照を玉照院に閉じ込めてさえおけば、噓も真に化け得る。叡山は、それくらいのことは平気で命じてこよう。憲雄は今の叡山がどのような寺院であるか、よく分かっているつもりであった。

 二つ目の懸念は一つ目よりややこしい。ややこしいが、これを何とかすれば一つ目の懸念も落着させることができる。

 果たして、恃照は堂入りを終えたのか否か、その判定である。その点、恃照は実に絶妙の時宜に倒れたと言えるのであった。

 確かに恃照は三匝をわずかに残して倒れた。これは誰がどう見ても、行不退とされる千日回峰行の頓挫である。

 ところがあのとき、叡山の執行によって、堂入り満行は実際に宣されているのである。そういう意味では、堂入りは無事完結したと押し通せるのではないか。この一点を以て、恃照は阿闍梨を名乗る値打ちがあると、何とか強弁出来ぬものであろうか。

 しかし、である。

 三匝は、堂入りの冒頭と最後に行う、言わば対となっている行である。

 その片方が欠けたとなると、これでは当行満とは言えぬではないか――。

 恃照の秘事を知らぬ者に無邪気にそう詰め寄られれば、憲雄に返す言葉はない。当行満どころか、行不退の鉄則に鑑み、恃照は自らの命を絶たねばならぬではないかと詰問されかねない。

「憲雄さま」

2025.09.22(月)