本来ならば、ここは「それはならぬ」である。平安期に相應和尚(そうおうかしよう)が回峰行を創始しておよそ千年、叡山の規律を守るためならば、ここは憲雄の懇願を却下してしかるべき状況であることは間違いない。

 だが、ここで恃照の秘すべきことどもが活きた。

 執行は焦っておる――。

 表層は冷静を装ってはいるが、膝が折れそうに震えるのを隠すのでやっとであろう。恃照の死は、叡山及びその高僧らの処遇に直結するからだ。

 恃照を預かっているという一事で、叡山は朝廷から少なくない所領や音物(いんもつ)下賜(かし)されたと聞く。無論そこには、朝廷からの「他言無用」という含意がある。憲雄にはその仔細を確かめる気すら起きぬ。生臭が、と心中(さげす)みつつ、しかしここは諾の意を示す以外に取るべき行動はない。

「……承知」

 憲雄の頭頂を一瞥(いちべつ)し、執行は高僧を引き連れて明王堂に背を向けた。(すだ)く人々も、一人、また一人と明王堂をあとにした。

 そして、憲雄と恃照の二人だけが残された。

 恃照は、まことか細くはあったが、確かに息をしていた。憲雄は己が腕の中に愛弟子を抱いた。

「わしに任せろ。よいな」

 憲雄の(まなじり)からは熱き(なみだ)(こぼ)れ落ちた。その(しずく)が、抱きとめる恃照の頬に落ち、唇へと()った。

「おいしゅう……」

 恃照はそれだけ言うと、がくりと首を垂れた。

「恃照、恃照!」

 明王堂内に差し込むように吹き入る風が、恃照の干からびた頬を撫でていた。

 差し出された茶碗を傾けたり置いたりしながら、憲雄と聖諦はしばらく沈黙を守っていた。叡山は未だ沙汰を寄越さぬ。これを吉と取るか凶と取るか、判断が難しいところであった。

「憲雄さま」

 先達たる憲雄に寄り添うように、聖諦はその声を和らげた。

「恃照は……必ずや目を覚ましましょう」

 憲雄は聖諦には応えず、唇を真一文字に結んでいる。

 そこへ、梵鐘(ぼんしよう)(うな)るような響きが届いた。その余韻が弱まり、やがてのうなる間、二人は一言も発さなかった。

2025.09.22(月)