ふたたび話しかけられ、優彩は座り直す。

「はい。四国自体、行ったことがないんです」

 旅行というものを、優彩は滅多にしたことがなかった。どれも冠婚葬祭など、やむにやまれず出かけただけで、それこそ旅そのものを目的とした自主的な一人旅というのは、まったく経験がない。興味がないからではなく、時間やお金の余裕がなかったからだ。修学旅行の積立金だけでも、親に申し訳ないと感じたくらいである。

 旅をする人たちに、漠然と憧れることはあっても、自分も行動にうつす勇気や欲はなかった。実際、日常とは違う場所に身を置くことで、どんなすばらしいことがあって、どんな気持ちになるのかというのも、過去の経験がなさすぎて、よくわからない。

「じゃあ、楽しみね。人生、はじめては一度きりしかないからね」

 たまたま隣に座っただけの、女性の何気ない一言は、心の琴線につんと触れた。

「はじめては一度きり……ですか」

「そうよ。どんなお金持ちでも、初体験を買うことはできない。時間はどうやっても巻き戻せないからね。だったら何事にも、今しかないっていう気持ちで向き合っていたいと私は思うわ。いくつになっても、はじめての経験はまだまだあるものね」

 独り言のように呟きながら、女性は優彩の隣の、窓の方を見やった。

 いつのまにか機体は動きだしていた。遠くの方にターミナルが見える。空が広い。徐行を止めたと思うと、エンジン音が大きくなって、機体はがたがたと揺れながら速度を増していった。ふわりと浮く感覚があって、思わず、優彩は肘置きを握りしめていた。

 窓の外で光り輝く雲海に目をやりながら、ジョニ・ミッチェルの大好きな一曲のことを思い出した。彼女はその曲を、飛行機に乗っているときに思いついたらしい。たしかに歌詞は、機内からの光景にぴったりだった。

 ――これまで雲というのは、羽毛の渓谷のように美しく、夢のお城のように神聖なものだと感じていた。けれども今や私にとって、雲は雨や雪を降らせては、お日さまを遮る厄介な存在でしかない。

2024.01.23(火)