『棚からつぶ貝』(イモト アヤコ)
『棚からつぶ貝』(イモト アヤコ)

 単行本が刊行されて三年、この文庫版あとがきを書くにあたり、あらためて本書を読んで思った。

 本当にわたしは人に恵まれている。

 振り返ればここ数年、環境の変化について行くのが精一杯だった。

 仕事ではコロナという未知すぎるウイルスによって、それまで当たり前に行われていた海外ロケがストップした。当たり前のように会っていたコーディネーターさん達にも会えなくなり、近いと思っていた世界がこれほどまでにも遠く感じたのは、昔漠然と地球儀を見ていた小学生のとき以来だった。

 一方、プライベートでは妊娠、出産、そしてそれに伴う「ホルモンダイビング」を経験し、スカイダイビングより激しいと感じられるほどの高低差を感情が激しく波打って何度も自分を見失いそうになった。世の中のお母さん達がこれを経験したのかと思うと、もう尊敬の念でひっくり返りそうになる。

 なんていうのだろう。

 わたしは今まで特殊なお仕事のおかげで、猛獣と競走したり、8000メートル級の山に登ったりと、いわば「見た目」的にも派手に分かりやすく頑張っている様子をお茶の間の皆さんに見て頂いてきた。もちろんロケは過酷だったので、決して簡単にはいかなかったし、体力的にも精神的にもしんどかった。

 けれどそのしんどさと同等、いやそれ以上の「頑張った」「凄い」という褒めリアクションを頂いた。

 わたしはすこぶる単純だ。それだけで気分はよくなり、数カ月後には辛かった思い出を忘れ、もう二度と登らないと思った山をなぜかまた登っているのだ。しかし妊娠、出産、育児。このヒマラヤ級の「母親山」に登ってみて思ったのは、

  みんなリアクションうすーーーーーーーーっ!

 比べるもんじゃないけど、出産や育児はマナスル登頂に匹敵するほど困難な道のりで、生活がしっちゃかめっちゃかになってしまった。でも、特別、感謝されたり褒められたりしない。

 おそらくわたしは今まで褒めリアクションの温室で甘やかされてきたのだ、と産後半年くらい経ったときにようやく冷静に分析できた。

2024.01.08(月)