父はせっかちなひとだった、と書くと意外に感じる方も多いだろうか。性格は温和で、人と話す時間をこよなく愛する寂しがり屋だった。仕事の飲み会とあれば、都合をつけて出かけてゆき、二次会、三次会にまで顔を出す。しかしプライベートでは、家族とゆっくりと食事を楽しむことはあまりなく、食べ終わると先に一人で仕事場に向かうような一面があった。遠出しても旅情を味わうどころか、「何時に帰るのか」とそわそわしだす。デビュー当時から父は、限られた時間をどれくらい執筆に充てられるか、という危機感を常に持っている節があった。飲み会の後でも、締め切りが近ければ仕事場に戻って原稿に向き合い、新幹線や飛行機で移動する間を惜しんでパソコンを開いていた。
そんな父が旅に出るようになったのは、「曙光を旅する」の連載が始まった二〇一五年春のことである。その前の年の秋、久留米の「オリーブ」の縁で佐々木亮さんと運命の出会いを得てから、父のフットワークは軽くなった。京都に仕事場を構えると決めたのも、同じ頃だったと記憶している。主に九州を巡る旅に出ようとしているにも関わらず、六十四歳にして京都に第二の拠点をつくったのだ。日本の歴史の中心で暮らしてみたかったからだろう。父は曙光の旅を中心にスケジュールを組み、福岡、京都、時に東京を行ったり来たりするようになった。
旅に出る日は、遠足を待ちきれない少年のように、朝早くからリュックを背負い、スニーカーを履いていた。その足取りは軽く、どこへでも行けそうだった。私たち家族はそんな父を見て、「大人の修学旅行だね」、と笑いながら見送った。
父はタイミングが合うと、私を荷物持ちの運転手として旅に同行させてくれた。念のため説明させていただくと、私は本書『曙光を旅する』に登場する「高校の教師をしている次女」(212頁)ではない。言わば父のサポーターだった長女である。「福岡に執筆できる場所が欲しい」と望まれれば、天神のレンタルオフィスを契約し、「京都に住んでみたい」と打ち明けられれば、現地に赴き不動産屋を回って物件を探す。父の仕事場を整え、夢を応援するのが私の役割だった。余談だが、普段「一番楽しいときは?」と尋ねると、父は決まって「コーヒーを飲みながら小説のことを考えるとき」と答えた。京都に仕事場を構えたとき、フクロウが描かれたコーヒーカップを贈った。父はとても喜び、自分の好きなカプセルをコーヒーメーカーにセットし、おいしいコーヒーを楽しんでいた。
2024.01.05(金)