自分には何ができるだろうか。
佐々木譲『帝国の弔砲』は、その単純な問いを突き詰めた男の物語である。
スリーパーとは、目的地に入り込んで民間人として生活し続ける工作員のことだ。正体を隠して平凡に生活する、つまり眠ることが仕事の大部分を占める。それゆえスリーパーである。その期間は長ければ何十年にも及ぶ。仮面を被って生きれば、当然どんな人に対しても自らを偽らなければならなくなる。スパイ小説にはスリーパーを扱ったものの一ジャンルがあるが、その中ではしばしば欺瞞から生じた悲劇が描かれた。
本作の主人公・登志矢は、スリーパーである。プロローグでは、彼が目覚めて、本来の姿を露わにするまでの一昼夜が描かれる。任務を遂行するためには当然、それまでの生活で築いてきたすべてを捨て去らなければならない。非情に徹しようとしつつ、登志矢は人間としての心が覗いてしまう自分を律しきれないのである。
実は本作が『オール讀物』に連載された際、このプロローグと呼応するエピローグ、その前の「遠い眠り」の章は書かれていなかった。二〇二一年二月二十五日第一刷発行の奥付で単行本化された際、加筆されたものである。登志矢が東京で目覚めるのが一九四一年七月、その時制で綴られるプロローグとエピローグで過去の物語を挟んだ構成になっている。第一章「入植地の裁き」の舞台は、一九〇三年九月、シベリアの日本人入植地である。八歳の登志矢は、ある男が不当な裁判にかけられる場面を目撃して、社会にはびこる不正、強者が弱者をないがしろにする構造の存在を知ることになる。ある人物との出会いが起点となり、登志矢本人には見えないところで歯車が回り始める。
次の「収容所八号棟」で、登志矢たちの小條一家は理不尽な処遇を受けることになる。ロシア帝国と日本の間で戦争が勃発したため、すべての日本人が敵性住民に認定され、収容所送りとなった。入植地で苦労して蓄えた財産はすべて奪われ、見知らぬ土地での生活を余儀なくされるのである。挿話の最後で登志矢は、自分には何ができるだろうかと考え始めるようになる。運命の輪を自分で回し始めるのだ。このとき十歳、続く「少年工科学校」では、登志矢が鉄道技師になるための勉強を始めたことが明かされる。
2024.01.02(火)
文=杉江 松恋(書評家)