第一次世界大戦で小條一家に起きたことは、第二次世界大戦においてアメリカの日本人移民が受けた差別政策とほぼ同じである。架空の出来事ではあるが、実際の事件を転写したものでもあるのだ。国家が個人の権利を奪い、収奪してきた近代史が本作の中には凝縮した形で詰め込まれている。歴史改変というSF的技巧がそれを可能としたのだ。

 自国の経済圏を可能な限り拡大する。その目的の前には侵略も正当化される。差異は無視され、単一の価値観に従属させることが美徳となる。二十世紀を支配した帝国主義とはそうしたものである。国家は肥大し、個人の権利が限界まで制限される。そうした非人間的なありように立ち向かう者たちを描いたのが、二十世紀の冒険小説であった。

 世紀の終りに冷戦構造の崩壊など国際社会を規定していた枠組みのいくつかが崩壊したが、二十世紀的な非人間性は形を変えて残存している。そこから目を背けて二十一世紀の冒険小説は成り立つわけがない。佐々木譲はそのことに最も意識的な書き手であり、時に新しい技巧に挑戦しながら、人間が人間らしくあるためにはいかに生きるべきか、という唯一かつ至高の主題に向き合い続けている。帝国の揺らぎの中であらゆる辛酸を舐め尽くす登志矢は、そうした佐々木の問題意識を体現した主人公なのだ。物語の終盤で、彼は未来から轟く弔砲の音を聞く。帝国という非人間的な機構が存在を否定されていく時の流れを表したものとして私は読んだ。

 さて、ここからは物語の結末に触れることになるため、本文をまだ味わっていない方は読み終えてから目をお通しいただきたい。すでに味わっていただいた方には、ちょっとしたデザートにでもなれば幸いである。

 エピローグで、登志矢は当初の予定を変更している。大連から〈縄〉を頼って満州国を移動しソ連国内に戻るという脱出経路ではなく、上海に渡ってマニラ経由でメキシコへと向かっているのである。この目的について登志矢は言及していないが、ことによると意味を取り損ねた読者もいるのではないかと思う。蛇足を承知で補っておきたい。

2024.01.02(火)
文=杉江 松恋(書評家)