特に好きなシーンは?
――『遠い山なみの光』では義父である緒方さんが、主人公悦子の人生に大きな影響を与えました。原爆で家族を失った悦子の親代わりとなり、彼女と義理の親子になる。いわば彼が彼女を選んだわけです。でもとても美しい物語であり、三浦友和さんが繊細にそれを見せています。
イシグロ ええ。悦子にバイオリンを弾いてほしいと頼むシーンは三浦さん、広瀬すずさんの2人とも素晴らしくて、とても力強い場面だと思います。

――イシグロさんが映画の中で、特に好きなシーンはありますか?
イシグロ 一つ一つのシーンが繋がっているから、どこか一場面を取り上げるのは難しいですが、どうしても挙げるとしたら、やはりバイオリンのシーンですね。加えて、佐知子が悦子に、原爆投下時の恐ろしい記憶について長い話をしている場面もハイライトと言えます。
私の小説でも、もちろん同じことを話しているんですが、私はそれを映画の手法で言うフラッシュバックに近いものとしていました。つまり、その場で語られている感覚が失われ、過去の場面が挿入される。おそらく、ここは慶さんもフラッシュバックを使うだろうと思っていました。
しかし彼がここでモノローグを選んだのは、勇敢な決断であり、見事な選択だったと思います。意外であり、しかも単なるモノローグにとどまらず、人物の顔すら映さない。佐知子が戸口へ歩いていくが、見えるのは背中と肩、そしてタバコの煙だけなんです。そして彼女の声だけが聞こえる。
その間、カメラはしばしば広瀬すずさん演じる悦子の顔に切り替わるが、彼女の反応は予想とは少し違う。彼女が考え込んでいるのが見て取れて、そこで初めて「ああ、彼女も奇妙な形で共感しているんだな」と気づくんです。
だからこのシーンは非常に繊細で、かなり勇気ある演出だと思いました。私はこのシーンがとても好きです。
カズオ・イシグロ
1954年、長崎県生まれ。5歳の時に、両親と共にイギリスに移住。1982年、『遠い山なみの光』で小説家デビュー。世界各国でベストセラーとなった『日の名残り』、『わたしを離さないで』は映画化されている。2017年、ノーベル文学賞を受賞。また、映画『生きる LIVING』(23)では脚本家として米アカデミー賞、英国アカデミー賞脚色賞の候補となった。
『遠い山なみの光』全国公開中
1980年代、イギリス。夫と長女を亡くした悦子(吉田羊)が一人で暮らす家に、大学を辞めて作家を目指す次女のニキ(カミラ・アイコ)がロンドンから久々に戻ってくる。長崎で原爆を経験し、1950年代にイギリスに渡った母の波乱の半生を小説にしてみようと考えたのだ。ニキに請われ、悦子は30年前の夏の思い出を語り始める。
1950年代、長崎。妊娠中の悦子(広瀬すず)は、最初の夫・二郎(松下洸平)と団地で暮らしていた。ある日、佐知子(二階堂ふみ)とその娘・万里子と知り合った悦子は、闊達だが謎めいたところのある彼女に惹きつけられる。同じ頃、福岡から二郎の父・緒方(三浦友和)が珍しく訪ねてきた。小学校の元校長だった緒方は教え子を探しているようだった。
出演:広瀬すず 二階堂ふみ 吉田羊 松下洸平 三浦友和
原作:カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』(小野寺健訳/ハヤカワ文庫)
監督・脚本・編集:石川慶
配給:ギャガ

2025.09.07(日)
文=石津文子