人の心というものは自分でも乗りこなせないいびつさを持っている
幼い子どもと接するとき、口にした言葉とは違うことを要求していた、ということがままある。例えば、子どもが出先で「帰りたい」と言ったとする。帰りたいというのはあくまでひとつの手段で、よくよく聞いてみると「お腹がすいた(から帰りたい)」ということで、帰らなくてもお腹が満たせれば機嫌を取り戻したりする。本来伝えたいことが本人ですら上手く伝えられない、ということは子どもにはよくあるが、実は大人でもそういうことが頻繁にあるのではないか、と考えるようになった。何年生きていたって、自分の本当の気持ちを正確に言葉にすることは、実は難しいことなのではないだろうか。その場の状況や雰囲気、自分の精神状態で本心とは違うことを言ってしまった経験は誰にでもあるし、その気持ちに気づけないまま過ごすことだってある。
そう仮定すると、わたしは本来、他人と話すことは嫌いではないのかもしれない。突然話しかけてくる人の素朴さに心がほぐれるし、困っている人には親切にしてあげたい。わたしが嫌だったのは、話しかけてきた人が純粋な気持ちではなかったことで、突然話しかけられたことではない。そのことに気づくのに随分時間がかかってしまったが、きっと同じように記憶と感情がかけ違えていることはたくさんあるのだろう。ディズニーシーでの一幕は特異なパターンではあるが、あの日一番面白かったのは結局、後ろの人たちに尻尾で遊ばれたことだった。これも人によっては、「そっちの方が嫌だよ!」と思うかもしれない。だけど、その人が体験した時の気持ちは、その人のものでしかない。つくづく、人の心というものは複雑で扱いづらくて、自分でも乗りこなせないいびつさを持っていると思い知らされた。
わたしは傷ついた経験を苦々しく感じ、他人を疎んじる自分の性質をドライすぎるのかもしれないと引け目に思うことが多々あったが、それは自分自身の心を尊重できていた証でもあったし、そのことについて考えを巡らせている現在は、回復のプロセスに入っているのだとも言える。一体どのくらいの距離を保てば、他人と安心して生きていけるのかはまだわからない。三十年と少し生きてたって、自分のことすらわからない。だけど、このわからなさすらもきっと必要な通過点であるということは確かだ。「感じすぎる」と思ったことが、意外とそうでもなかったりする。そのことに気づけたいま、ほんの少し背中が軽い。
僕のマリ(ぼくのまり)
1992年、福岡県生まれ。2021年、『常識のない喫茶店』(柏書房)で商業デビュー。その他の著書に『いかれた慕情』(百万年書房)『記憶を食む』(カンゼン)など。自主制作の日記本も発行している。
X @bokunotenshi_

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編集部が注目している書き手による単発エッセイ連載です。
(タイトルイラスト=STOMACHACHE.)
2025.08.26(火)
文=僕のマリ