――4度目のがんではどんな治療を?
古村 ひとつラッキーだったのは、3度目の治療中断から4度目が見つかるまでの4年の間に、新しい薬が承認されたことでした。私のがんの再々再発が見つかるほんの数カ月前に承認されたそうで、この薬がなければ治療は難しかったと思います。
その後は「受けられるだけの治療をやりましょう」ということで、まずは3剤の抗がん剤投与から始まり、現在は1剤を6週間に1回投与しています。これがなかなか相性が良くて、投与して最初の1週間ぐらいはダウンするんですけど、残りの5週間はわりと元気に過ごせていて。最近では「がんを忘れられる時間」が少しずつ増えています。

「次男が『そんな日もあるさ』とだけ返信してきて…」
――13年にわたるがん闘病のなかで、3人の息子さんたちにはどうやって伝えていたんですか?
古村 私は嘘が下手で、態度でバレてしまうので子どもたちには早い段階から全て伝えていました。最初のがんで子宮を全摘してからしばらくして、三男がまだ高校生ぐらいのときに3人だけで「子ども会議」を開いたことがあるみたいなんです。その会議で、私は一度落ち込むとどこまでも落ちてしまいそうだから、シリアスに接さずに「へー、がんなんだ。それがどうしたの?」ぐらいのスタンスで返していこうと、3人で決めたようです。それにすごく助けられました。
――素晴らしいですね。
古村 2度目のがん以降、主治医と大切な話をするときは長男がいつも付き添ってくれるんです。私が治療のことで悩んだり迷ったりしていると、「やるしかないよ」と言ってくれます。
2度目のがんで抗がん剤治療を受けているときに、私が病院に行く途中で人身事故を目の当たりにしてパニックになったことがありました。「どうしよう。治療できない」とLINEを送ると次男が、「そんな日もあるさ」とだけ返信してきて。「私だけが悲劇のヒロインじゃないんだ」と思い直すことができて、すごく救われたのを覚えています。
――それぞれの役割分担がしっかりしているんですね。

古村 抗がん剤の影響で、私はメンタルが大きくアップダウンすることがあって、特にキッチンに立つと落ち込むんですよ。ある日「どうして私ばっかりこんな目に遭うんだ。苦しい」という気持ちでいっぱいになってしまって、鍋をシンクの角でガーン! って叩いたんです。そうしたら、当時20歳ぐらいだった三男がやってきて私の手から無言で鍋を取り上げ、火にかけながら鋳物職人のように金槌でトントン叩き出した。それで穏やかな声で「これ直んないぞ。もっとうまく叩けよ」って言うんですよ。
――注意するでもなく心配するでもなく、軽く受け止めてくれたんですね。
古村 母としてはダメダメですよね。鍋を叩いて壊して、情緒不安定な姿を見せて。でも三男はそれを否定しなかったんです。「ダメな母さんでも、いていいんだな」と思わせてくれた。三男はそうやって、空気を変えるのがうまいですね。
2025.08.14(木)
文=佐野華英