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断崖絶壁しかない山の中に、頂上までの広い道が必要だった理由

 坂道の下で、「NPO太東埼燈台クラブ」の成澤融さんが待っていて下さった。航路標識協力団体の指定を受け、太東埼灯台周辺の草刈りや伐採、清掃など、美観促進を主な活動としているという。そうした作業を担う人たちがいなければ、山深い道はあっという間に荒れて通ることさえできなくなってしまうだろう。

「急な山道ですけど、頑張って登りましょう」

 日に灼けた肌に白い髭。どことなくハイジのおじいさんを思わせる風貌の成澤さんが案内して下さる。色づいた葉を落とし始めた広葉樹と常緑の照葉樹が入り混じり、左右の斜面から覆い被さってくる。

「この道はですね……」

 ゆっくり並んで歩きながら、成澤さんが話して下さった。カメラを担いだ撮影クルーが、後になり先になりして私たちのやり取りを撮っている。

「この道は、戦時中、一日に六百人から千人くらい、近隣の農家やなんかが駆り出されて人海戦術で作ったんです。手で掘って、畚を担いだりなんかしてね」

「駆り出された、というのは……」

「軍にです」

 登った先には海を見おろす断崖絶壁しかないはずのこんな山の中に、どうして頂上までの広い道が必要だったのか。

 じつは太平洋戦争当時、この周辺一帯には旧日本軍の基地や飛行場などが点在していた。「行川アイランド」で知られる行川には特攻機の基地が、海岸べりの小浜には人間魚雷「回天」の基地が、太東には海軍太東飛行場があった。

 そんな中、太東岬に海軍の電波研究所が建てられることとなった。岬の突端、遮るものとてない崖の上に、米軍機の接近を探知するレーダーを何基も設置せねばならない―つまりその建設のためにこそ、まずはしっかりとした道を作ることが急務となったのだ。

「軍の命令に対して、イヤだなんてもちろん言えるわけがない。男だけじゃなく、女も子どもも村じゅうが強制的に動員されて、朝から晩まで働かされた。だから、昔のことを知る住民にとっては、なんとも複雑なわけです。灯台が建てられたのは戦後だけれども、『あの当時のことを思い出すから、同じ場所に立つ灯台の姿は見たくない』って言う人もいるくらいでね」

2025.03.20(木)
文=村山由佳
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2025年1・2月号