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灯台は海の守り神

 南房総に住んでいた頃、当時の夫と切り拓いた農場で飼っていた、男名前の牝馬・ジャック。濃いミルクティー色の体躯に尻尾とたてがみだけが白い、〈月毛〉と呼ばれる毛色の彼女をあの砂浜まで連れていってまたがれば、暴れん坊将軍よろしく波打ち際をどこまでも駆けることができた。あれほどの快感は他になかった。引き波に洗われて真っ平らになった砂に、ひづめが沈み込んではまた蹴る時の柔らかな弾力と、彼女の身体にみなぎる歓喜の手応えを今も覚えている。

 そのジャックは、もういない。ちょうどこの灯台をめぐる旅のひと月ほど前に、預けていた北海道の牧場で息を引き取ったばかりだった。

 みんないなくなっちゃうんだなあ、と思ってみる。あの頃、農場で一緒に暮らしていた犬や猫たちはもちろん、私たちを追いかけるように房総へ引っ越してきた父も母も、相次いでこの世を去ってしまった。

 ひとごとではない。私も今はまだ急な梯子を上れるけれど、十年前にはそこそこ御すことのできた馬に、今ではまともに乗れる気がしない。あと十年もたったら、馬にまたがるどころか地面に立っていてさえ足腰がおぼつかなくなってゆくんだろう。

 ディレクター氏が、無線で地上とやり取りしている。

 展望台から海を眺めているところをドローンで空撮するというので、待っている間、桜川さんと二人でお喋りした。海上保安庁は転勤が多く、単身赴任が長かったそうで、

「家族揃って暮らせないっていうのは寂しいもんですよ」

 桜川さんは相変わらず優しい目をして言った。薬指にはまった結婚指輪のデザインが素敵だったのでそう言ってみたら、千倉町の商店街にある時計屋さんで誂えた、とのこと。

 びっくりした。その同じ時計屋さんで、私の父は生前、長年愛用していた腕時計の最後の電池交換をしたのだ。

 目路の限りの彼方までなだらかで美しい弧を描く海岸線に、白い波が幾重にも幾重にも、まるで繊細なレースが重なり合うかのように打ち寄せる。眺めていたら、強い風のせいばかりでなく目尻に涙がにじんだ。二式大艇の時代よりはるか昔から、そして今を超えてずっと未来まで―私たちの人生にどんな山や谷があろうとも、この景色ばかりはそれほど大きくは変わらないのだろう。

 再び梯子段をつたって地面に降り立つと、待っていた成澤さんが、お帰りなさい、と迎えて下さった。

「この灯台を守りたいと思われる気持ちが、わかるような気がしました」

 そう告げると成澤さんは、少し面映ゆそうに言った。

「次の世代に、この歴史を語りつぎたい。灯台は海の守り神、我々は反対にその灯台を守っていきたいと思います」

2025.03.20(木)
文=村山由佳
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2025年1・2月号