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荒井信敬が身命を賭した「掛塚灯台」
一説によると、幕末の動乱期、幕臣であった荒井信敬は、榎本武揚が率いる美加保丸に乗り込み、一路、北海道を目指したという。しかし、その航海の途上、銚子沖で船は沈没。信敬は辛くも助かったのだが、大勢が亡くなった。また、新政府軍によって囚われて殺された者もいた。
同志たちを失いながら生き残った彼は、だからこそ、遠州灘での船の遭難が他人事ではなかったのだろう。
「私財をなげうってまで灯台を建てたのなら、さぞや周囲の方々に感謝されたのでは」
そう言うと、佐藤さんは首を傾げた。
「それが、反対も多かったそうです」
船の難破は、この海域ではよくあることであった。そのため、難破船から流れ着いたものは、彼らにとって日常的に手に入る物資でもあった。灯台が出来ることによって、船が安全に航行するようになるということは、難破船がないということ。それを損失と考えた人たちもいたのだという。
「何度か放火されたこともあったとか」
木造であるために、すぐさま燃えてしまう。
それでも信敬は諦めず、再び建て直す。
「すると今度は、津波に飲まれたとか」
「それは大変な……」
「しかも、当人も一緒に流されているんです」
何せ、泊まり込みで火の番をしている。灯台のみならず、本人もまた海に放り出された。しかしここでも信敬は戻って来る。
「凄いですね……」
何とも強運というか、灯台を守る運命を背負っているというべきか……。
かくして荒井信敬が正に身命を賭した「掛塚灯台」は、完成から四年後、掛塚湊を管理する豊長社によって維持管理が引き継がれることになった。やがて、私設灯台の廃止が決まったが、この掛塚灯台は、官営となる。
「改心灯台が出来てから十七年、やっと官営の灯台が出来たんです」
それが、下はコンクリート製、上は鉄製による、現在の灯台である。
高さは十六メートル。
荒井信敬が建てた改心灯台の倍以上ある立派なものだ。
「こちらが、その二つが写っている写真です」
展示されているのは、荒井信敬が建てた木造の灯台と、官営の灯台が並んでいる写真である。
新しく建った白亜の灯台を一目見ようと、訪れる人々がいて、その最新技術を称えるかのように、国旗が翻り、祝賀ムードに溢れているのが分かる。上のテラス部分には、恐らく役人と思われる人々が立ち、見物に来た者と、隣の改心灯台を見下ろしている。
その二つの対比を見ていると、荒井信敬の渾身の改心灯台が、何とも可愛く健気に見えて来るものだ。
「反対されても、燃やされても、それでも守って来たんですよね」
荒井信敬の志が認められた証しでもあるけれど、同時に、ほんの少しの寂しさも感じられた。
2024.08.02(金)
文=永井紗耶子
写真=橋本篤
出典=「オール讀物」2024年7・8月号