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エッセイや小説、ラジオやコメンテーターなど多彩なフィールドで発信を続ける紗倉まなさんが、最新刊のエッセイ『犬と厄年』に込めた思いや、作品づくりの裏側を語ってくれました。賛否が渦巻くAVの世界に、なぜ今も身を置き続けているのか。揺れる気持ちを言葉にしながら、彼女が見つめる“居場所”とは?
書くという行為は、酸素のようなもの

――最新刊『犬と厄年』では、「書くことは傲慢な行為である」と綴っていらっしゃいます。2015年に初のエッセイを発表されて以来、ずっと書くことに向き合ってこられた紗倉さんにとって、日々の暮らしのなかで“書くこと”はどのような役割を担っているのでしょうか?
仕事だけでなく、プライベートでも感情に振り回されてしんどい時ってあるじゃないですか。その際に気持ちを大きく切り替えられるだけの趣味といえるほどの趣味を私は持っていないし、上手に息抜きをすることも適度に力を抜くことも得意ではないので、マイナスの感情をそのまま家に持って帰ってきてしまうことが多いんです。
なので、その時の消化できなかった気持ちを書いて言語化することで「あ、私あの時はこんなことを思っていたんだ」という発見につなげて強引に腑に落としています。
そういった意味において書くこと自体はセルフケアにはなっているんですが、だとすればそうしたセルフケアのために書いていることを、わざわざ人様に見せつけるってどうなんだろう? と、たまに我に返ることもあって。それで、ただただほとばしる思いを人様に読んでもらうことについて「傲慢だ」と表現しました。
――気持ちの整理のために「書く」ことを続けているとのことですが、普段どんなことに対してイライラしたり、つらさを感じたりすることが多いですか?
自分が社会にあまりフィットしていない人間であると強く自覚しているからこそ、過剰に気を使ってしまうことも多くて。
自分ファーストで動いている人を見ると、「私はこれだけ周りのことを気にかけて動いているのに、なんでこの人はこんなに自由で勝手でナルシストなんだろう」「私だったらもっとこうするのに」なんて感じてしまうんです。おこがましいんですけどね。
その際に感じたモヤモヤを、家に帰ってから書くことによって昇華させて成仏させて、納得させるというかけりをつける、といった感じで日々をまわしています。

だから、私にとって書くという行為は、なくてはならない酸素みたいなものです。書いていないと逆に、息苦しくて仕方がないというか。
――AV女優や小説家としての活動に加えて、ラジオでも活躍されていますが、シーンによって言葉の使い方を意識的に変えていらっしゃるのでしょうか?
自分がどの立場でそこに呼ばれているのかは強く意識しています。「どういった目的で呼んでくださったのですか?」などと先方に聞いてしまうこともあるほどで。
例えばラジオだったらエロ要員としてお声がけいただくことが多いので、下ネタを盛り込まないと聴いている人をガッカリさせてしまうし、逆に小説に付随する話やニュース番組では、創作の話や思考の深掘りをする作業に近い話だったり、時事的なトピックスに関しての意見を求められることが多いので、そういった場ではエロい話を持ち込む理由が必然的になくなります。
それもあって、私を知る入り口が何だったかによってだいぶ私の印象は異なるかもしれません。

家ではそういった役割から解放されるので、ずっとラップのようにひとりで文句や思ったことを言い続けてます(笑)。
犬と暮らし始めたのでペットカメラを使っているんですが、そのペットカメラアプリを開くとふらふら動きながらラップを歌っている自分が映り込んでいて、あまりの衝撃映像に笑ってしまうことも多いです。
「なんかやばいなこいつ。それにそれを俯瞰で見ている私もやばい」などと言って謎にツボっています。
2025.07.05(土)
文=高田真莉絵
撮影=平松市聖