この記事の連載

「改心棒」と共に

「掛塚灯台を見る前に、ぜひ、立ち寄って欲しい所があるんです」

 この取材の日程を相談している時、編集の八馬祉子さんから提案を受けていた。

 この掛塚灯台を語るには、その灯台が建つ以前にあったという私設の灯台について、知っておいた方がいいというのだ。

 そこで磐田市歴史文書館に赴いた私たちは、職員の佐藤清隆さんから、お話を聞くことになった。

 最初に足を踏み入れたのは、歴史文書館のそばにある竜洋郷土資料館。

「この辺りは、天竜川の上流で伐採した材木を売ることで栄えてきました。木挽きと縁が深い町なんです」

 と、私の著書『木挽町のあだ討ち』にかけて説明して下さった。

 江戸の昔、掛塚は「遠州の小江戸」と呼ばれ、山と海の恵みを受けて来た土地でもある。そうして栄えた掛塚湊には、幕末に至るまで灯台と呼べるようなものはなかった。

「掛塚に灯台を建てることを決めたのは、荒井信敬という人物でした」

 この荒井信敬は、幕末、幕臣であったという。明治維新の後、現在の静岡県袋井市に移り住み、茶園の開墾に従事していた。

 しかしある時、信敬は、この天竜川の河口付近で難破する船が多いことを知った。山の方で大雨が降ると川の水は増え、それが河口で激しい流れとなる。その上、川から流れ出た砂が沈殿しており、潮の流れに舵を取られて座礁する船が多かったのだ。

「船を守るためには、灯台が必要だ」

 そう思い立った信敬は、自ら私財を投じて灯台を建てることを決意した。

「そうして建てられたのが、最初の掛塚灯台です」

 一八八〇年に造られたそれは、現在のものとは違い、木造で高さはおよそ七メートル。ランプなどは設置できるはずもなく、木綿を芯にして菜種油を灯すといったものであった。

「自ら、この灯台に泊まり込み、火を守ったのだそうですよ」

 その燃料費も自腹を切っていた。

「その時に、彼が愛用していたのがこの『改心棒』と名付けられた盃です」

 写真で見せられたのは、底が丸くなっている盃である。

「荒井信敬は、大変、酒が好きだったそうです。それを一杯だけで我慢して、灯台の燃料の為のお金をねん出したそうです」

 一杯を飲み干したら、盃を寝かせて、二杯目を注がない。そうして浮かせた酒代を、灯台の維持費にして、船の航海の安全を守ったらしい。そのため、当時からこの灯台は「改心灯台」と呼ばれていた。

「そこまでしたのは何故なんでしょうねえ」

2024.08.02(金)
文=永井紗耶子
写真=橋本篤
出典=「オール讀物」2024年7・8月号