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紀貫之が記した歌

 何かが視界をかすめた気がして、地面に目をやる。フナムシだろうか。黒い影がさっと岩陰に隠れて行ったが、その密かな動きまでがどうと響く波音を際立たせている。

「つまり空海はこの音を聞いて、日々を送ったんですね」

 空海は室戸での大悟を経て、延暦二十三年(八〇四)、遣唐使一行に加わって大陸に渡る。長安・青龍寺の高僧・恵果の弟子として研鑽を積んだ彼は、約三年後の帰国以降は朝廷から厚い信頼を受け、真言密教の開基として活躍を始める。

 その頃の室戸岬には、当然、海の安全を守る仕組みなどなかった。空海が生きた時代から約百年後、土佐国―つまり現在の高知県の国司として赴任していた貴族・紀貫之は、京に戻る際、現在の高知県南国市にあった国府を出発し、東へと海路を取っている。国府を出発してから約二十日後、現在の室戸市付近にさしかかった一行は、天候がすぐれなかったために「御埼(室戸岬)」を越えるのに、約十日間、風待ちをする羽目となった。その間の思い出として、貫之はある人が以下の歌を詠んだと記している。

 ―かげ見れば 波の底なるひさかたの 空漕ぎ渡るわれぞさびしき

(月がとても美しく、空にも海にも同じようにその光が映る夜。水面に落ちた光を見れば、波の底にも空があるようだ。そこを漕ぎ渡ることのなんと心細いことだろうか)

 初めて通読した時には何とも思わなかった詠み手の不安が、室戸の地に立つと、まるでわがことのように身に迫ってきた。航海が潮任せ風任せだった昔の人々にとって、海がどれほど恐ろしく、また慈愛に満ちた存在と映ったことだろうか、と考えずにはいられなかった。

 本日の目的地である室戸岬灯台は、岬の頂きに建つ最御崎寺にもほど近い。ではお寺にお参りをしましょうと、島田さんに促され、我々は境内に至る山道に踏み入った。

 最御崎寺は明治五年まで女人禁制で、女性はこの道の途中までしか入ることが許されなかったという。明るい木漏れ日を受けながらたどりついた仁王門には、これまた弘法大師の像が建ち、参拝者を出迎えている。広い境内を横切って導かれた本堂でご本尊に手を合わせ、おや、とわたしは思った。

 歳月に磨かれた広縁に、小さな穴が開いている。木造建築において、板の節部分が穴になることは珍しくない。ただ目の前のそれは何かがぽつぽつと穴を開けながら進んだかのように、点線状の跡を刻んでいた。

「ああ。それが何かは、後で灯台に行ったときにご説明しますよ」

 そう仰る島田さんに従って、お寺の脇の斜面を下り始めた途端、目の前にまるで大きな布を広げたかのように、真っ青な海と空が広がった。先ほど上って来た緑の色濃き山道が信じられぬほどの光景に、いつの間にかずいぶん高台に到っていたのだと気が付いた。

 その驚きを言葉に出す間もあらばこそ、すぐに行く手に真っ白な灯台が見えてきた。だがその瞬間にわたしの目を奪ったのは、どんぐりの帽子を思わせるちょこんと丸い灯台の先端でも、どっしりと力強いその形でもなかった。

2024.02.15(木)
文=澤田瞳子
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2024年2月号