子どもを授かれない悩み
「雛人形に我が子のような愛情を」

 こうして次第に周囲の理解が深まり、商売的にも安定し始めた47歳の頃、由香子さんにある心境の変化がおとずれたのだとか。

「由香子も僕も悩んでいました。雛人形を作りながらも、自分たちの子どもを授かれなかったことに。

 そんななか彼女は『売れないかもしれないけれど、自分の子どもを産んで育てる気持ちで、100%の愛情を注いだ雛人形を作ってみたい』と言ったんです。

 これまでもすべての商品に魂を込めていたのですが、会社を背負っているプレッシャーもありました。

 『横浜人形の家』で展示会が開かれるなど作家として認められた今、『これから、いつまで新作を作り続けられるか』と、ふと思いを馳せたようです。

 僕は『今日まで頑張ってきたんだから、もう、自分の好きにやってみたら』と伝えました。なにより僕自身が、彼女が自由に作った雛人形を見てみたいという気持ちでした」

 そうして、たががはずれたかのように思う存分、自分の世界に挑んだのが、おおいに話題となった「Gothic」だったのです。

「彼女自身がコスプレをしていたわけではないですが、ほぼ黒で構成してゆくゴスロリファッションに強い関心を示していたんです。

 そしてよく観ると、細かい工夫がたくさんあります。黒を基調としながらも不吉にならず温かみを感じられるように、髪を茶髪にしていたり、黒地に黄色い糸を入れて『暖色の黒』にしたり。

 後藤由香子20年間の集大成と呼べる雛人形になりました」

「売れないかもしれない。でも思いのたけをすべて注いで、全力で雛人形を作りたい」

 そう念じて制作に打ち込んだ「Gothic」は、SNSで猛烈な拡散を見せ、「後藤由香子の代名詞」と胸を張れる大ヒット作となりました。

 そしてその事実に驚いたのは、ほかでもない、由香子さん自身だったのです。

「驚きました。はじめて注文をくださった方は、なんと男性だったのです。さらに続くオーダーは、お子さんがいるご家庭ではありませんでした。

 『初節句でなくとも、大人がご自分の部屋に飾るために雛人形を購入するなんてことがあるんだ』と、作り手である彼女自身がビックリしていましたね。

 僕も『ヒットなんて狙って起こせるものじゃない。作家が本当に自分がやりたいことをとことんやるから、人の心に響くんだ』と実感しました」

 由香子さんは「Gothic」をきっかけに、短期間に数々の名作を生みだしました。

 それは顧みれば、職人として、作家として、最後の炎を燃やす時期なのだ、月へ帰る時間が迫っているのだと、察知していたからかもしれません。

2019.02.27(水)
文=吉村智樹
撮影=後藤通昭