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 怪談界きってのストーリーテラーであり、著者累計の売上は40万部を突破した松原タニシ氏。この夏上梓した『恐い怪談』(二見書房)は、タニシ氏が取材を重ねた実話怪談から選りすぐりの100本を構成して書き下ろしたもの。

 お盆だもの、タニシさんの珠玉の怪談で涼しくなってみませんか? 7日目の最終日は、タニシさんが伊藤さんという方から聞いたというお話、「香水の女」をどうぞ。


香水の女

 15年前、警備会社に勤めていた伊藤さんはオフィス街にあるビルの改修工事に立ち会っていた。その日は工事が早く終わったので、退勤時間まで防災センターの休憩室でテレビを見ていた。

 “カチャ”

 ドアノブを回す音が聞こえた。伊藤さんはビルの責任者が入ってきたのかと思い、イスから立ち上がろうとするが、動けない。座ったまま金縛りの状態になってしまった。

 伊藤さんの体はまったく動かないが、部屋の様子も動きがない。どういうことだろうと不思議に思っていると、ふと背後に気配を感じた。

 誰かいる……。

 次第に香水の匂いがしはじめた。

 女?

 後ろからゆっくりと何かが近づいてくる。視界に長い髪の毛が入り込む。女が自分の顔をのぞき込もうとしている。

 “カチャ”

 その瞬間、金縛りは解け、女の姿もなくなった。入ってきたのは防災センターのセンター長だった。

 それから3年後、伊藤さんは別の職場に勤めていた。勤務後に先輩と飲んだ帰り、自転車を押しながら歩いて帰宅すると、友人からメールが届いた。

「彼女できた?」

 身に覚えのない伊藤さんはメールを返すと、どうやら友人は自転車を押して歩いている伊藤さんを見かけ、声をかけようとしたが、自転車の横に女性が並んで歩いていたため、声をかけずにメールを送ったのだという。

2024.08.16(金)
文=松原タニシ
写真=志水 隆