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 怪談界きってのストーリーテラーであり、著者累計の売上は40万部を突破した松原タニシ氏。この夏上梓した『恐い怪談』(二見書房)は、タニシ氏が取材を重ねた実話怪談から選りすぐりの100本を構成して書き下ろしたもの。

 お盆だもの、タニシさんの珠玉の怪談で涼しくなってみませんか? 3日目は、タニシさんが林さんという方から聞いたというお話、「ゆきひこ」をどうぞ。


ゆきひこ

 四谷に住む60代の林さんは、いまから15年ほど前に渋谷から四谷へ引っ越してきた。5階建ての古いマンションの最上階で奥さんと二人暮らし。特に近所づき合いもすることなく1年が過ぎたある日曜日の夜11時半ごろ、明日は朝から仕事なのでそろそろもう寝る準備をしようかと思っていると、インターホンが鳴る。

 “ピンポーン”

 こんな時間に誰だろう。

 古いマンションではあるが一階はオートロックで、モニターには訪問者の姿が映しだされる。しかし画面には誰もいない。

 奥さんと二人「おかしいね」と首を傾げていたら、

 “ピンポーン”

 2回目の呼び出し音が聞こえた。今度は1階からではない。自分たちの部屋のドアホンが鳴っている。夜11時半に直接、ドアホンを鳴らす人間など、マンションの住人か管理人以外には考えられない。管理人はマンションに常駐しているわけではないし、そもそも一階からインターホンを鳴らしていたので外からの来訪者であろうと思われる。しかしいったいどうやって5階まで上がってきた?

 用心しながら林さんは玄関のドアを開けた。だが誰もいない。

 おかしいなと思って廊下を見渡すと、遠く離れたエレベーターの前に黒い人影のようなものが見える。

 “ん? あれか?”

 目を凝らして見ると、割烹着のような長い灰色のワンピースを着て、眼鏡をかけた50代くらいの女性が下を向いて立っている。気味は悪かったが、そのままにしておくのも不自然なのでドアを半分開けた状態で声をかけた。

「どちらさんですか」

 “…………ダダダダ!”

 女は突然走り出し、林さんの目の前まで距離をつめてきた。

「林さんのお宅ですか」

 か細い声で尋ねてくる。

「は、はい」

「ゆきひこいます?」

「え?」

「◯◯工場に勤めていた林さんですよね」

 林さんは工場勤務もしたことないし、妻との間に子供もいない。

「いや、違います、間違いですよ」

 そう言うと女はガッとすき間に足を突っ込み、ドアをバンと開けて、

「ゆきひこ、ゆきひこ!」

 叫びながら中に入ろうとしてきた。

「間違いです、間違いです」

「ゆきひこいませんか」

「ちょっと、本当にいませんから、本当いませんから」

「ゆきひこいますよね、ゆきひこ!」

「ゆきひこさんはいません!」

2024.08.12(月)
文=松原タニシ
写真=志水 隆