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宝船がやって来る

 多くの船が座礁、遭難したという遠州灘であるが、そこにあるのは悲劇ばかりではない。

「何と言っても、さつま芋が来ましたからね」

 明和三年(1766)のこと。

 薩摩の御用船であった豊徳丸が遠州灘で難破し、御前崎沖で座礁するという海難事故が発生したという。地元の村役人であった大澤権右衛門は、村人たちと共に船員の救助に当たった。

「お礼をしたい」

 薩摩藩から謝礼を渡そうとしたところ、大澤は「座礁船を助けるのは当然のこと」と、それを拒んだ。それでもお礼を、と、薩摩藩は当時、門外不出とされていたさつま芋の種芋と、その栽培方法を伝授した。以来、この周辺の地域では、さつま芋の栽培が盛んになったのだという。

「この辺りは、遠州のからっ風というほど、風が強いですから、干し芋にも向いているんです。最近では、埼玉や茨城でも干し芋が盛んだそうですが、静岡でも名産なんですよ」

 そう言えば、以前、取材に来た時にも、掛川の町中に干し芋の幟を立てた店があったのを思い出す。静岡に住む親せきからも度々、干し芋が送られてきたこともあった。

 また、御前崎から少し西にいった福田漁港の辺りでも、海難事故は起きている。

 寛政十二年(1800)のこと。

 清から長崎に向かおうとしていた船が、この遠州灘で遭難した。「異国船が難破した」ということで、周辺では大騒ぎとなった。船は清国寧波の商船「萬勝号」といった。

 当時、異人が国内に上陸することは禁じられていたため、八十人余りの船員たちは降りることもできず、漕ぎだすこともできずにいた。慌てた掛川藩の家臣たちが、船の様子を見に行くと、暇を持て余した船員は、宴を催していたという。その後、役人たちは、漢字を用いて清国の人々と話し合いを重ね、別の船を仕立てて、彼らを再び長崎に送り出して事なきを得たらしい。

 その時のことを、滝沢馬琴が興味津々で『著作堂一夕話』という本に書き記している。それによると、長崎などで流行っている明清楽、いわゆる清国の音楽が、遠州にも伝わったと記している。

 遭難や座礁によってもたらされる悲劇もたくさんあったのだろう。しかし同時に、こうして助けられたからこそ、人との交流、文化、音楽、そして農作物が、この地にもたらされたのだろう。

2024.06.30(日)
文=永井紗耶子
写真=橋本篤
出典=「オール讀物」2024年6月号