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海を守り、人に支えられ

 日本に灯台が建てられた時代、気象や明暗を検知するセンサーなどなかった。機械の信頼性もいまよりずっと低い。また灯台はたいてい、通勤できない僻地にある。

 だから昔の灯台には「灯台守」と通称される職員がいて、家族と職場に住み込んでいた。戦前はおおむね逓信省、戦後は海上保安庁に属する。戦前から戦後にかけて勤務した灯台守を主人公にした映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、時代に合わせて変わる制服も見どころのひとつだが、そこを見ているのはぼくだけかもしれない。

 さておき、神威岬灯台には当初3名、のち5名の灯台守がいた。彼らは家族に支えられながら、交代で機械をメンテナンスし、定時で気象データを記録し、日が暮れれば光を灯し、行き交う船の目印を守っていた。

 必要な物資は船から補給されるが、それだけでは足りない。生鮮食品は釣りや自家栽培で補い、日用品は4キロ離れた余別まで買い出しに行く。今と違って遊歩道はなく、険しい尾根や波に洗われる海岸を行き来していたという。雪に閉ざされる冬は苦労も並大抵ではなかったし、誰かが病気をしたところで、医者を呼ぶにも連れていくにも一仕事だった。

 大正元年、買い出しのため海岸を歩いていた灯台守の妻子3人が、大波にさらわれて亡くなる事故があった。現代の感覚なら仕事に家族を巻き込むなど論外とも思えるが、国家や職務に対する意識が全く違う時代だったことは留意しておきたい。変わらぬのは人情だから、家族を失う辛さは痛みを覚えるほど想像できる。神威岬灯台では、無人化される昭和35年までに87名の灯台守が勤務し、その家族が住んでいた。

「私にはとても灯台守などできませんな」

 海上保安庁の柴山さんは、そう言った。命懸けで職務に当たった先輩諸氏への敬意と、その後輩であるという自負がひっくり返ったのか、照れたような笑顔を浮かべておられた。

 ところで、灯台守の家族が波にさらわれた先述の事故のあと、事故を悼んだ地元の人々は、足掛け五年もの歳月をかけて波から身を守るトンネルを掘った。また時は無人化以降にくだるが、灯台守の暮らしを支えた漁師と元郵便局員が名誉灯台長に任命された。

 灯台守と家族は海を守り、守られた海に生きる地元の人々は灯台守と家族を支える。そんな関係と、それゆえに生まれたエピソードの数々が、町長のおっしゃった「町の誇り」という感覚になっているのだろう。

神威岬灯台

所在地 北海道積丹郡積丹町
アクセス JR余市駅前から北海道中央バス神威岬行きで1時間33分、終点下車
灯台の高さ 12
灯りの高さ※ 82
初点灯 明治21年
※灯りの高さとは、平均海面から灯りまでの高さ。

海と灯台プロジェクト

「灯台」を中心に地域の海と記憶を掘り起こし、地域と地域、日本と世界をつなぎ、これまでにはない異分野・異業種との連携も含めて、新しい海洋体験を創造していく事業で、「日本財団 海と日本プロジェクト」の一環として実施しています。
https://toudai.uminohi.jp/

11月1日から「海と灯台ウィーク」を開催!

「海と灯台プロジェクト」では、灯台記念日の11月1日(水)から8日(水)までを「海と灯台ウィーク」と設定。期間中、海上保安庁や全国57市町村の「海と灯台のまち」、さらに灯台利活用に取組む企業・団体と連携し、灯台参観イベントやオリジナル缶バッジプレゼント、コラボ商品の販売など、様々なキャンペーンを実施します。連載に登場した灯台の中にもイベントを開催するところがあるので、この機会にぜひ訪ねてみてください。

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