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現代への置きみやげ
彼は結局、政府の雇用を解かれて帰国した。
彼の残したのは灯台だけではなかった。いや、彼自身の意識ではそれも灯台のうちに入るのかもしれないが、人間もまた置きみやげにした。
仕事に習熟した灯台関係者というべき人々。彼らのなかには技師がいた。工事監督者がいた。あるいは完成後に現地で毎晩灯火の維持管理をおこなう灯台員たちがいた。とりわけ灯台員に関しては、彼は前述の手記でくやしそうに述懐している。
一八七四年(明治七年)に私は公式に次のような意見書を提出した。それは、現状では各所の灯台で三十七人の熟練した灯台員が必要であるが百人の日本人灯台補助員を試験したところ、わずか二十人が基準に達しただけだった。しかもそのうちで、熟練した外国人の監督者なしに職務が遂行できると信頼して配置できる者は九人だけであった。
こんなことだから日本人はあてにならないのだ、政府はもっとヨーロッパから熟練者を雇い入れるべきだったのだ、というのがこの文章の主旨なのだけれども、それはそれとして、私はむしろ明治七年という早い段階でもう九人もの信頼できる日本人灯台員を養成し得たことのほうに瞠目する。
十人につき一人をうかがう達成率。当時の志望者のたいていが灯台の何たるかを知らず、ましてやそこに住みこんで灯火をたえず監視したり、燃料油を補給したりすることの苦労を知ることもなく、ただ何となく安定した俸給がほしいというだけの理由でこの仕事に就こうとしたであろうことを考えると、かなりの好成績である。察するにブラントンは、よほど彼らを熱心に指導したのではないか。
叱咤し、激励し、辛抱づよく一から仕事を教えたのではないか。そうして彼の離日後も、優秀な灯台員はどんどん増えて、より高度な業務に堪えるようになり、その人間集団そのものが斯界の最大の財産となった。
彼らはブラントンへの感謝を忘れなかった。ほかの日本人技師や工事監督者も同様だったろう。彼の離日から二十年以上も経って完成したこの美保関灯台がなお彼の設計の型を踏襲し、しかもそれが「ブラントン型」などと個人名を冠して呼ばれているという事実は、まぎれもなく、その感謝がいかに長く尾を引いているかを物語っている。
2023.07.05(水)
文=門井慶喜
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年6月号