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ブラントンが日本の「灯台の父」と呼ばれるわけ

 彼は、要するに仕事人間だった。仕事以外のあらゆることは興味の対象外だった。さっき触れた徳力訳の本には、論文「日本の灯台」とは別に、ブラントンが死の直前まで書きためた日本滞在記というべき手記が収められていて、じつはこの手記のほうが主要な部分を占めているのだが、読者はどのページをひらいても彼が日本文化を味わったり、日常生活を楽しんだりした形跡がないことにおどろくだろう。

 早い話が、私が読んだかぎりでは―もう何度も読んでいるが―、そこには芸者も相撲も富士山も出て来ない。

 緑茶も鮨もうなぎもないし、家族のことも言及がない。身近な誰かとのユーモラスなやりとりもない。ただただ灯台その他の設計や建設をどのようにしたか、無理解な役人の命令にどのように抵抗したか、そんな話をつぎつぎと繰り出すだけなのだ。

 あたかも彼自身が一個の機能と化しているかのよう。そもそもこんな実学一辺倒の回想記を死の直前まで書くということ自体がもう彼の精神の何ものかを示しているわけで、おそらく彼にとっては美を愛でるとか、装飾に凝るとかいうのは何の意味もないことだった。いや、もしかしたら無意味どころか堕落と同義語だったかもしれないのだ。

 この点において、ブラントンという人は、たとえばこの少しあとの時期にアメリカからおなじ島根県へ来た英語教師ラフカディオ・ハーンとは好対照といえる。ハーンが小泉八雲などという日本名を弄して日本人のこころに共感したり、あるいは日本の古典や民間説話に取材して短編小説集『怪談』を著したりしたことは、ブラントンにとっては―もしも知っていたとすれば―理解しがたい風狂のはずだ。

 逆にいえばブラントンは、こういう徹底した工学的、自然科学的生活の故にこそ、八年という短い滞在期間のうちに三十基ちかくもの灯台を築くことができたわけである。これはたいへんな密度なので、彼がこんにち、日本の「灯台の父」と呼ばれるのもまことに当然のことだった。

2023.07.05(水)
文=門井慶喜
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年6月号