映画の予告編に起きた“ある変化”
時間や労力をかけずに作品をインプットしようという動きは、ながら鑑賞やネタバレブログ、「1分でわかる文学」的な要約記事等々、昔からあるものだ。ゲームの攻略本にもその要素はあるかもしれない。ただ、速読術や『スピードラーニング』に相応の集中力が必要なように、倍速できちんと情報をインプットしようとした場合にも、それ相応のスキルが不可欠だ。全ての人に当てはまるわけではないだろうが、倍速鑑賞は総じて肉体的にも精神的にもハードなインプット方法であり、通常の作品鑑賞よりも疲弊する場合もある。球速が倍になるようなもので、また、飽きない代わりに重要なシーンを見逃す可能性も高まる。
鑑賞者によるOKの程度がどれくらいなのか――つまり熱意の差異で揺らぐものではあれど、「コストパフォーマンス」という字面から考えるとコスト(時間↓体力↑気力↑)に対するパフォーマンスは通常よりも高いのだろうか? という疑念に駆られた。むしろ人々をそう“させる”のは、「よっしゃ効率重視したろう」という能動的な意欲というよりも、むしろ空白恐怖症にも似た強迫観念なのではないか?
端的にいえば、コンテンツの濁流にのまれ、限られた時間でこれまでの2倍3倍のコンテンツを享受しようとした結果、急き立てられてせっかちになってしまったのではないかという感覚。本来悠々と楽しむべきものがタスクやミッションになってしまい、「数をこなす」というノルマ的な意味合いをはらむようになった。人生を文化芸術で彩るという“豊かさ”とは真逆の方向に突き進んでいるのではないかという危機感が、コスパ重視の鑑賞法に対する僕の忌避の念の正体なのかもしれない。
例えば、映画の予告編も近年は短くしたものや、ダイジェストを冒頭に付けた構成のものがみられるようになった。映画の予告というものは大体、公開が近づくにしたがって特報→本予告→スポットのように情報を小出しにしていくのだが、TVやWEB、デジタルサイネージ等で流すスポットはおおよそ15~30秒程度なのはそこまで変わらないものの、かつては日本版の特報が1分、本予告が2分程度だったのがいまや特報は30秒、本予告は1分程度のものも多い。
海外作品の予告では2分超のものもあるが、冒頭20秒に「残り2分でこういうことが描かれます」ダイジェストを入れた2分20秒構成パターンが主流と考えると、「勝負は20秒」という意味では日本も海外も大きな差はないように感じる。「2分の映像は長すぎてユーザーに観てもらえない」という判断が故だろう。
確かに、Twitterのタイムラインで飛ばされるまで――その動画を観るかどうかの判断は約1秒ともいわれているし、YouTubeのショート動画やTikTokの流行からみても動画は「いかに短く(早く)魅せるか」という方向に流れているようにも映る。
ただ、繰り返しになるが、瞬間で情報の取捨選択を判断するには相応の集中力を要するし、情報の処理速度も高速化せねば「同じ時間で2倍3倍の情報のインプット」は難しい。パソコンに複数のタスクを並列処理させるとフリーズしてしまったり、熱を持ってしまい冷却ファンがゴオオ……と忙しなく動き出したりするが、それと同じような感じだ。
2023.05.20(土)
文=SYO