いじめられっ子・しずかの見え方が変わる第5話以降

 ここまででも話題性を呼ぶに十分なスキャンダラスな作品なのだが、『タコピーの原罪』が真骨頂を発揮するのは、第5話以降だろう。これまでサブキャラ的な立ち位置だった同級生の東(あずま)が介入することで、物語や人物関係、そしてなにより人物像が大きく変動していく。

 「まりなの殺害」という事態の収拾を図るべく、しずかは現場を目撃した東を取り込み、証拠の隠滅と事件の隠ぺいを図ることに。その際にしずかは、「東くんしかいないの 助けて」と涙ながらに懇願するなど、相手(特に男性)を虜にする魔性の魅力を振りまくのだ。その後も、しずかが東やタコピーを“操作”して自分に都合のいいように利用していく展開が描かれ、第1話で描かれた「かわいそうな少女」のイメージは完全に書き換えられる。

 つまり、しずかは自身のストロングポイントを(恐らく意識的に)把握しており、それが“効く”相手に対してはめっぽう強い人物だったということ。第1話でタコピーに好意を抱かせるなど伏線が張られていたが、第5話以降はボディタッチや上目遣い、笑顔を振りまくといったテクニックを投入しまくり、本領発揮と言わんばかりにアクセル全開になっていく。

 優秀な兄へのコンプレックスで悩む東を焚きつけて罪を擦り付けようとしたり、まりなに変身して周囲を欺くタコピーをアゴで使ったりと、完全に手が付けられない存在に変貌してしまうのだ。

 いじめの被害者と加害者を描く物語といえば『聲の形』や『3月のライオン』などがあるが、前者は贖罪と相互理解、後者は声を上げることの重要性と難しさを描いており(いじめの被害者が教師に「許さなくてもいい?」と言うシーンは痛切だ)、やや乱暴な意見ではあるが、そこに何かしらの光を見出そうとするものともいえる。

 しかし『タコピーの原罪』においては、加害者も別の方向から見れば被害者であり、被害者も加害者になりうる、というシビアな目線が貫かれており、キャラクターに救いを求める読者の心理を破壊してしまう。

 この容赦のなさは、例えば『呪術廻戦』の「自分が助けた人間が将来人を殺したらどうする」といったシビアな問いかけや、『憂国のモリアーティ』における「弱者への施しが必ずしも犯罪の抑制にはつながらない」という残酷な真理のような「現実をベースにした思考」とも価値観を共有しつつ、「人間は多面的なものであり、一概に正邪で括れない」といったメッセージを強く感じさせる。

 つまり、『タコピーの原罪』でいえば、我々がストーリーの序盤に見ていたしずかは、あくまでその一面でしかないということ。だが、主人公が「容疑者は無実なのか?」と翻弄されるさまを描いた映画『真実の行方』や『理由』のように「欺く」意志がそこにあるのではない、という点が重要だ。

 どういうことかというと、しずかは最初から自らを偽っているわけでも、隠しているわけでもない。まりなが死んで豹変したわけではなく、利用できる相手と状況になったから、自らの能力を発動したまでなのだ。

 そういった意味では、ヴィランの過去にフォーカスを当てて誕生秘話を描く『ジョーカー』、敵である鬼も元は皆人間であり、人間VS元人間のバトルが哀しみを醸し出す『鬼滅の刃』のような、ある種の「憐憫」はしずかとは無縁のものといえるかもしれない。彼女が置かれた環境や状況が与えた影響は大きいにせよ、より「元からこういう人だった(かもしれない)」というニュアンスが強く描かれているのだ。

2022.03.12(土)
文=SYO