いつかアメリカのショービジネスに

増田 その後、後楽園ホールでの決戦大会の収録が終わってから、同じビルの2階にある「後楽園飯店」で面接があるんですね。プラカードを上げてくれた会社が一社一社来てくださって、自分たちのところのPRをされるんですが、みなさん、大体は3人ぐらいで連れ立って来て、同じようなことしかおっしゃらないんです。

近田 まあ、恐らくは、通り一遍の内容になっちゃうだろうね。

増田 ところが、後に私たちのプロデュースとマネジメントを手がけることになる相馬一比古さんだけは、たった一人でやって来て、「君たちを、いつかアメリカのショービジネスで勝負させたい」と言い残して帰られたんです。

近田 壮大な夢だよね。その時点では大風呂敷といってもいい。

増田 それがすごく衝撃的で。いろいろと知名度の高い会社も来てくださったんですが、ミーも私も、この人の会社に行きたいと決めちゃったんですよ。

近田 当時、相馬さんはどんな立場だったの?

増田 大手の芸能事務所である芸映から独立して、「アクト・ワン・エンタープライズ」を設立したばかりでしたね。「スター誕生!」のプロデューサーの方からは、「あの会社はまだできたばかりだから、今後どうなるか分からない。やめた方がいいよ」と忠告されたんですが、「いや、あそこにしか行きたくない」と答えました。

近田 決心は固かったのね。

増田 そして、私たちはアクト・ワンに所属することになり、アクト・ワンは、間もなく「T&Cミュージック」という新たな事務所になりました。

近田 そして、1976年8月に、クッキー改めピンク・レディーは「ペッパー警部」でデビューするわけだよね。あの曲を渡された時は、どんな感想を抱いたの?

増田 あとは私たちの歌を吹き込むだけというところまで出来上がったテープを聴いたんですが、イントロが流れ出した瞬間、体が硬直しちゃった。「これこそが、私たちの歌いたかったソウルフルなナンバーだ!」って言い合って、その場で、ミーと2人で号泣したんです。

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