“山の神”としての熊―転機となった「VOCA賞」受賞

 そんな彼女の名前を広く知らしめたのが、2023年に東京・上野の森美術館で開催された「VOCA展2023」でのこと。全国から選ばれた若手作家が参加するこの展覧会で、永沢さんは最高賞となる「VOCA賞」を受賞しました。

 受賞作のタイトルは『山衣(やまごろも)をほどく』。4メートル近い大きなキャンバスに堂々と描かれたのは、ツキノワグマ。その背景には、山々が広がり、霧のような空気が漂っています。墨や岩絵具、ティッシュ、そして自らつくった熊膠など、さまざまな素材が使われています。

 この絵に描かれた熊は、ただの動物ではありません。山の神としての存在であり、人間にとっては畏れの対象であり、時に脅威ともなる、複雑な存在です。永沢さんは、その両面をしっかりと見つめ、絵のなかに閉じ込めました。

 見る人の心に、ふと「自分は自然の中で、どんなふうに生きているだろう」と問いかけてくるような、不思議な余韻のある作品です。

絵の外にまで広がっていく表現

 永沢さんの制作は、ますます自由に、広がりを見せています。

 あるときは、廃校になった体育館をまるごと使って、大地に絵を描くようなライブペインティングを行なったり、沖縄での滞在制作では、地元の自然や文化をテーマにした作品をつくったり。近年では、絵画だけでなく、音や映像、言葉、絵本など、さまざまな表現にチャレンジしています。

「土地に生きること、それが自分にとっての制作の出発点なんです。自然があって、暮らしがあって、そこで感じたことを、どうやって伝えようかって考えていると、自然と表現が広がっていくんですよね」

 そんな彼女の姿に、いま多くの人が惹きつけられています。

「山に生かされて、描いている」

 インタビューの終わりに、「これからどんな作品を描きたいですか?」と尋ねると、永沢さんはすこし考えてから、こう話してくれました。

「絵を描くって、自分の手で何かを“生み出す”ことだと思っていたけれど、いまはむしろ、山や自然のなかに“描かせてもらっている”って感覚が強いです。命の声に、ちょっとでも耳を澄ませられるような絵を描いていけたら」

 どこまでも謙虚で、誠実なその姿勢に、胸がすっとあたたかくなります。

 自然とともに暮らし、命に寄り添うようにして描かれた彼女の作品は、きっとこれからも、静かに、でも確かに、人の心を動かしていくでしょう。

永沢碧衣(ながさわ・あおい)

1994年生まれ、秋田県横手市出身。秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻卒業。フィールドワークを重ねながら、自然や山の生き物をテーマに制作を続ける。2023年「VOCA展」VOCA賞受賞。現在も秋田を拠点に活動中。
公式HP https://www.aoi-nagasawa.com/