「根拠がわからないなら、その処置をやらせるわけにはいかないよ」
「……はい」
「今日やるってわかってたのに、なんで勉強してこなかったの? 処置の時間までにちゃんと調べてね」
「根拠は?」という質問は、看護学生と新人看護師が一番聞かれる言葉であり、一番怖がる質問だ。
患者への処置や治療が必要な“医学的理由”をしっかり理解していないと事故につながる可能性がある。しかし、答えられない学生や新人はけっこう多い。
「遠野、後輩の間で“根拠の鬼”って呼ばれてるらしいですよ」
記録を見ていた山吹が、ぼそっと私に耳打ちする。
「根拠の鬼?」
「なんにでも、根拠根拠ってうるさいからって」
山吹は少しだけ笑った。
「でも、必要なことでしょう」
「はい。だから、みんな遠野には直接口答えできないんですよ。ど正論だから。それで、陰口ですよ」
あいかわらず山吹は情報通である。三年目の遠野への陰口を五年目の山吹が知るのは難しそうなものだが、にこにこしながら「それで? それで?」と後輩のふところにもぐる山吹の顔が目に浮かぶ。思わず苦笑した。後輩たちにとって、山吹は話しやすい先輩なのだろう。
「根拠の鬼、ねえ……」
わからなくはない。後輩にしてみれば、遠野は口うるさいのだろう。でも、どうして根拠を知る必要があるのか、毎回ちゃんと確認してくれる先輩がいかにありがたいか、自分が年数を重ねるとわかってくるはずだ。
ちらりと見ると、北口はうつむいてしょげていた。あとで声をかけてみよう。
「おはようございます」
主任の御子柴匠さんがナースステーションに入ってくる。
病棟唯一の男性看護師で、すらりと長い手足にぴしっと白衣を着こなしている。どんなときでも冷静で、クールなイケメン。患者さんにもご家族にも、そして同じ看護師にもファンが多い。本気で狙っている人がいるかどうかは知らないけれど、あいにく既婚者で、最近赤ちゃんが生まれたばかりの新米パパである。
2024.11.08(金)