透子さんと別れて、歩いて家に帰る。マックの前の通りの桜は、満開だ。今日は朝から日差しが眩しい。青い空を見上げると、春の風にちらちらと散る花びらが光る。大岡さんもこんなふうに木々を見上げて、きれいだと思っていたのだろうか。私は意識のない大岡さんにしか会ったことがない。自分で完璧に剪定した庭木を見上げて美しいと満足するとき、どんなお顔で笑ったのだろう。お元気だったときは、どんな人だったのだろう。完治する見込みのない患者と接することは、ときどきすごく切ない。
「ただいま」
家に帰って、テレビ台の上に飾ってある写真に話しかける。
アフロみたいなチリチリのパーマを頭のてっぺんでお団子にして、ゆるゆるのTシャツを着た千波の写真。三門千波は同じ看護学部の友達で、働き始めてからすぐに一緒に住み始めたルームメイトだ。血液内科で働いていた看護師だった。
この写真を撮ったときのことはよく覚えている。二人でみなとみらいに遊びに行って、観覧車の中で撮影したものだ。「高くて怖い」という私をからかって、千波はわざとゴンドラを揺らした。「やーめーて!」と怒る私に「ごめん、ごめん」と言って笑いながら向かいに座ったその顔があまりにも優しくて、思わずスマートフォンを向けたのだ。カメラを起動して、シャッターボタンを押す指が震えた。この瞬間を、景色も音も匂いも高いところの恐怖心さえも、何もかも保存しておきたい。世界には私たち二人しかいないのではないかと思った。春の夕暮れで、水色とオレンジの混ざりあったような空の色が忘れられない。
「今日、また『思い残し』を視たよ」
美しい空を背景にした笑顔は何も言わず、ただそこにいてくれる。
「大岡さんがしゃべれれば良かったのにって、ちょっと思っちゃうよ。意識が戻らない人だからこそできる看護はあると思うし、ありのままの姿を尊重することが大事って頭ではわかってるけど、自分の声で伝えたいことが何かあったのかなって思っちゃって……ダメだね、私」
2024.05.11(土)