ぼそぼそと言う私に、千波は写真と同じような優しい顔を向けて笑ってくれるだろう。「ダメなんてことないよ。そう思っちゃうときも、あるよ」。きっとそう言って、励ましてくれる。千波はどんなときでも、私を否定しなかった。
「ちょっと寝るね、おやすみ」
写真に声をかけてソファに横になる。シャワーを浴びたい気もしたが、朝マックで食欲が満たされたせいか急激に眠気が襲ってきた。目を閉じると、瞼の裏に観覧車から見たグラデーションの空が浮かんでくる。淡い空気に包まれるような感覚がして、そのまま眠りについた。
目を覚ますと、室内はまだ明るくて、どのくらい寝ていたのかわからなかった。スマートフォンに手を伸ばすと、十五時二十分と表示されている。夜勤明けで何もせずに一日眠ってしまうと損をした気になる。
「ああ、寝すぎたかなあ……」
つぶやきながら体を起こす。目をこすると、落とさずに寝てしまったマスカラの欠片がぼそぼそと指についた。ゆっくり立ち上がって洗面所へ向かう。鏡の中には、夜勤明けの疲れた顔。千波はいつも「咲笑は童顔でいいなあ」と言ってくれたけれど、今目の前にいるのは、マスカラの滲んだ、痩せたカエルみたいな丸顔だ。
服を全部脱いでお風呂場へ行き、オイルのメイク落としで顔をこする。熱いシャワーを頭から浴びて、顔も一緒にすすぐ。お湯はいつもいい匂いがする。温かい湯気で肺を満たすと、ようやく体が目覚めてきた。
大岡さんが転落したときの状況を詳しく知ることができれば、「思い残し」についても少しわかるかもしれない。私はシャンプーをしながら、救急で働いている同期の顔を思い浮かべていた。
「卯月の言ってた患者さんだけど、グレイス港台ってマンションで作業していたみたいだね」
同期の高原良介は、枝豆を口に入れながらおっとりとしゃべる。愛想のいい優しい男だ。私の兄はサンボマスターというバンドが好きなのだけれど、この同期はそのサンボマスターのボーカルに似ているという理由で、私は勝手にサンボと呼んでいる。ちなみに、本人はサンボマスターを知らない。
2024.05.11(土)