前篇では、吉原を描く覚悟やオリジナルキャラクターたちの運命について語ってもらった。後篇では、蔦重・てい・歌麿の三角関係に潜む創作への欲望、親に捨てられた記憶が生む蔦重の自己肯定感の低さ、そして「血脈vs文化」という一橋治済(生田斗真)と蔦重の対比について。森下氏自身の創作観も交えながら、この物語の核心に迫る。


蔦重・てい・歌麿の三角関係に込めた思い

――蔦重とてい(橋本愛)、歌麿(染谷将太)の三角関係も印象的でした。つよ(高岡早紀)やていは歌麿の思いに気づいているのに、蔦重だけが気づかない。そんな中、歌麿は蔦重に「俺のほしいものは何ひとつくれねえんだ」という切ない思いを抱き、一度は決別します。この三角関係にどんな思いを込めましたか。

森下佳子(以下、森下) 世の中、言えない思いの方が実は多いんじゃないかなと思っているので、私はごく普通のことを書いたつもりです。周りが先に気づくことに関しても、割とそんなもんじゃないかなって。歌麿は明和の大火の時と、成人してから、2回蔦重に命を救われている。そういう特別な存在だからこそ、蔦重とていが結ばれた夜、隣の部屋で「よかったな蔦重」と言いながら布団をかぶって。あの時、「生まれ変わるなら女がいいからさ」と言わせたのは、もし自分が女だったら蔦重の隣にもっと当たり前のようにいられる道もあったかもという思いですよね。それで画号を「千代女」にした。……という仕立てですけどね。私の勝手な。

――周りは気づいているのに、蔦重だけが気づかない。それは瀬川(小芝風花)との恋についてもそうでしたが。蔦重は、そうした鈍感さの一方で、世の中の動きには鋭く敏感で、商売人として、人の欲望や気持ちを読むことには長けています。その鈍感さと繊細さのバランスが面白いですよね。

森下 多分、蔦重は自分のことを誰かが好きだとは、あまり思ってないんじゃないですかね。というか、自分が行動するときにそこを織り込まないというか。相手にどう思われてようが、自分が好きなものに対しては好きという思いで近づくし、その人に良くしてあげようと思うけど、自分が好かれてるかどうには無関心なんじゃないかなと。だから、自分に向けられた感情には鈍感で。

――蔦重の関心は、内側(自分自身)に向いていなくて、常に外側(他者や文化、世の中)に向いている人だからですか。

森下 ちょっと悲しいことを言えば、やっぱり親にも捨てられたと思って生きてきてるわけだし、自分のことを世の中の人が無条件で好きなわけないって思っているところもあるんじゃないですかね。だからそこをアテにしないというか。

――蔦重の周りにはいつもたくさんの人がいるし、名編集者で、人を乗せるのもうまい。それに、遠慮なく作家陣にダメ出しするし、ガンガン人に突っ込んで行きますよね。

森下 それは仕事だから。仕事だったりその付き合いに目的があればいけるんですよ。目標に向かって走れば言いわけだから。私もそうなんですよ。基本「世の中の人は私に基本無関心、もしくは嫌いであろう」という前提で生きてます。

――え!! それはどうしてですか。

森下 そのほうが「好き」って言ってもらえたらすんごいラッキーだと思えるし、「嫌い」って言われても「いたっけ?」って言われても「まぁ、そうか。だよね」で済むし、ダメージ少なくて良くないですか? ま、でも、こういうことはどうしようもなく「原体験による」みたいなとこありますのですね。私の自己肯定感が低いのはあまり気にしないでください。50も過ぎるともはやその低さを自分の一部として愛でる域に入ってますから。そうですね。そこを蔦重にちょっと載っけちゃったかもな。すいません。だいぶ話が本題から逸れちゃいましたね。大丈夫ですか(笑)?

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