「ほかのこと……」

「例えば、薬を飲んで、お昼ごはんを食べようとしたときに、猫がベランダから落ちそうになっていた、とか?」

 透子さんは「ちょっと無理があるか」とつぶやいてから「ああ、足だるい」と黒いスキニージーンズの上からふくらはぎをもんだ。夜勤は十六時から翌朝九時までの長時間労働だ。足はむくむし、だるくなる。

 私は大岡さんのことを考えながら、温かいホットケーキにシロップをたっぷりかけた。しっとりした生地にバターとシロップが染みていく。一口食べると、疲れた体に糖分が沁みわたる。朝マックは夜勤後に食べるのが一番美味しいと思う。

「なんかさ、どんなに丁寧に看護をして穏やかに過ごしていただいたとしても、結果的に在宅に戻れなかったり、亡くなったりするのって、どうなんだろうね」

 透子さんは、少し真面目な顔で言った。

「どうっていうのは?」

「Oさんは、もう回復の見込みがないわけでしょう。私はずっとオペ室だったから、手術の途中にどんなにバタバタしても、走り回っても、医者に怒鳴られても、患者さんの手術が成功すれば良かったわけ。でも、長期療養にいると、どんな看護を提供したとしても、亡くなる人は亡くなるし、回復しない人も多い。もちろんそれはオペ室も同じなんだけど、オペ室の場合はその途中経過を患者さんもご家族も絶対に見ないからさ。結果に加えて、途中経過の大事な科って難しいなって最近思うんだ」

 たしかに、大岡さんはもう目を覚ますことはないだろう。でも、だからこそできることもある、と私は思う。

「根本的なことは変わらないと思いますけど……たしかに、オペ室は治すことを目的としていますからね。長期療養は、完治の見込みのない方ばかりですし……」

「どっちが良くてどっちが悪い、なんてないんだけどね。ただ、全然違うなあ、ってまだ思う」

 そう言って透子さんは、ソーセージマフィンに齧りついた。

 私は長期療養型病棟でしか働いていないから、ほかの科で働いてきた人と看護観が違ってくるのは当たり前だと思う。

2024.05.11(土)