あの日から、彼女からの連絡はない。俺も連絡していない。彼女が口にした別れの理由を、俺は正確に理解できないままでいる。言わんとするところは何となくわかる気もするが、ならばどうしたらよいのか、と考えると、すぐに袋小路に迷いこんでしまう。今の自分の状態をもちろん肯定はしないが、「火がないから」と言われても、自分では確認のしようがない。
焼肉屋で、どういう意味なのか、と多聞に意見を求めてみても、
「わからん」
とけんもほろろに返された。
「でも、俺にもその火はないのだろうなと薄々感じる。お前が俺に質問すること自体、間違っているよな、とも感じる。ま、焦ったところで、すぐには点(つ)くもんじゃないだろうな」
下宿に帰るなり、玄関脇の靴箱を開けてみた。
照明の光が届かない隅に、影と一体化したように黒いグローブが突っこんであった。三年ぶりだろうか。引っ張り出して左手を入れてみる。意外なくらい、指に馴染んだ。グローブの内側には、土に汚れた軟球がいっしょに挟まっていた。
社会人になってはじめての夏休みを俺と過ごす、という選択肢を彼女は拒絶した。
その結果、俺は京都に残され、四万十川を気持ちよくカヌーで漕ぎ回る代わりに、野球をする羽目になりそうである。
ボールを指と手のひらを使って回しながら、早朝の六時から多聞と野球をやっている自分を想像してみた。
掛け値なしに最悪だと思った。
八月の御所グラウンド
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文藝春秋
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2024.02.01(木)