思い出すも何も、そこが「現場」だった。

 いつもなら、大阪から京阪電車に乗って出町柳(でまちやなぎ)で下り、叡山電鉄に乗り換えて下宿まで来てくれる彼女から、「出町柳まで出て来てほしい」と連絡があった。

 予感がなかったわけではない。

 それなりの兆しはあった。

 けれども、これまで何度も遭遇してはやり過ごしてきた、いわば渋滞のような衝突のひとつであり、今度も知らぬうちにいつもの流れに戻るものだと思っていた。

 でも、戻らなかった。

 雨の土曜日だった。

 出町柳の駅を出てすぐの場所にある、賀茂大橋のたもとで、傘を差した彼女が待っていた。

 その場で別れを告げられた。

 理由を教えてほしいと頼む俺に、彼女は長い沈黙を挟んだのち、

「あなたには、火がないから」

 と暗い表情で俺の胸のあたりを指差した。

「燃えて灰になったものもない。最初から、ただの真っ暗。いや、真っ暗という色すらないかも」

 彼女は俺と同い年だった。現役で大学に合格していたため、すでに卒業し、春から大阪で働いていた。社会人になって、好むと好まざるとにかかわらず鎧のようなものを少しずつまとっていく彼女と、就職活動を早々に諦め、何もかもが剝がれ落ちていく自分との間に、溝のようなものが生まれているのは感じていた。

 たとえば、時間への感覚。彼女が休日に計画していたことが、俺の寝坊でご破算になったときの、彼女の全部をあきらめたような暗い眼差し――。

 橋の欄干に手を置くと、雨に濡れた冷たい石の感触が伝わってきた。雨雲を映して不愛想な表情になっている鴨川の流れを見下ろし、四万十川に行く日程はなくなったのだな、とそこではなかろう、ということをぼんやりと考えた。

「嫌いになる前に別れる」

 目をそらさずに告げた彼女から、逃げるように先に目をそらしたのは俺のほうだった。

 聴覚にも、視覚にも、まだ生々しく蘇る記憶をたどりながら、河原から賀茂大橋に上ったが、別れを告げられた場所を通るのが嫌で、道路を隔てて反対側の道を選択して橋を渡った。

2024.02.01(木)