「タダより高いものはないのだよ、朽木君」

 と本日二つ目の世の真理を告げた。

 教授のお願い、すなわち卒業との交換条件とは、

「たまひで杯で優勝すること」

 だった。

 たまひで杯とは何ぞや。

 それは野球大会の名称である。

「野球? こんな溶けそうなくらい暑い盛りに、外で野球? 頭おかしいだろ。俺は絶対に嫌だ」

 大丈夫だ、と多聞はやけに凜々しい顔でうなずいて見せた。

「朝六時にプレイボールだから、まだそれほど暑くなっていない」

「六時? 冗談やめてくれ。起きられるわけないだろ、そんな時間」

 非常識極まりない話に猛烈な拒絶反応を示したのは当然の成り行きだったが、同じくらい当然の理(ことわり)として、俺に選択の余地はなかった。

 三万円の借財に、豪勢な奢り焼肉の恩。

 焼肉屋が入った雑居ビルから出ると、澱(よど)んだ夜の熱気に包まれ、高瀬川はいつも以上に存在感薄く、限りなく低い水位でもって日々の営みを続けていた。不意に彼女の、いや、元彼女のスマホで見せてもらった、四万十川のなみなみと水をたたえた風景が蘇った。青い空をバックに、川を左右から挟みこむ山々が鏡のように川面に映りこみ、そこに色鮮やかなカヌーが浮かんでいた。トレッキング帽子をかぶり、パドルを握っているはずの女性が、なぜかバットを構えている絵にチェンジしたとき、

「じゃ、あさって、御所G(ごしょジー)で」

 と多聞に笑顔で肩を叩かれた。

 目的を完遂した満足感からか、口笛などを吹きながら、バイト先の祇園へと向かう多聞の厚みのある背中を見送ってから、俺は帰路に就いた。

 三条大橋から鴨川べりに降りて、川沿いに自転車を漕ぎ続けた。

 人気のない道を川音に耳を浸されながらペダルを踏んでいると、妙にしんみりとした気持ちが寄せてくるから、夜の鴨川は苦手だ。

 案の定、欄干の照明を受けて闇に浮かぶ賀茂大橋が見えてきたあたりで十日前、彼女に別れを告げられたときのことを思い出した。

2024.02.01(木)