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「高い塔を建てる」という命題

 日本灯台史の系譜から言うと、前回くわしく記した「灯台の父」、幕末期に日本に来てたった八年のあいだに三十基ちかくもの灯台を築いたイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの二世代後くらいの位置にいる。

 二世代後だから、さしずめ「灯台の父の孫」だろうか。具体的にはブラントンの帰国後に日本の灯台建設をささえたのが通訳あがりの藤倉見達という人で、そのあとを継いだのが石橋絢彦。

 年譜を見ると石橋は明治十三年(一八八〇)から約三年間、おもにイギリスに留学して灯台の研究をしているので、おそらくこのとき、すでに帰国していたブラントンと直接会って指導を受けたと思われる。

 ほかの誰よりも日本をよく知る先生に教わったわけで、はたしてそうなら例の二重壁構造もこのとき伝授されたのかもしれない。ブラントンは犬吠埼灯台(千葉県)、尻屋埼灯台(青森県)などでこの構造を採用していて、いわば持ち技のひとつだったから、

「石橋君、君の国は地震が多い。背の低い灯台ならばその必要はないが、高いならぜひこれでやりなさい」

 などと勧めたのではないか。石橋はそれを学んで日本へ持ち帰って―一種の逆輸入というべきか―出雲日御碕灯台の設計にあたることとなり、満を持して図面を引いた。

 だからこの日本一高い灯台は二重壁構造なのだと、そんなふうに想像したいのである。現代最新の構造力学では二重壁にはさほどの意味はないのかもしれないが、だとしても文化的な意義は失われていない。いくら西洋人の指導を仰ごうと、いくら技術が未熟であろうと、結局は日本人がみずから立ち向かわなければならなかった「高い塔を建てる」という命題に対する、これは果敢かつ実直きわまる解答なのである。

2023.08.11(金)
文=門井慶喜
写真=橋本篤
出典=「オール讀物」2023年8月号