「父の死の2年後には有能な社員はほぼ辞めていた」(渡辺)

渡辺 まずは完全に相続対策としての意味合いだったわけですけどね。そこから私たちは、各社の莫大な借金をどう返していくかの旅に出ることになりました。

近田 そんなに借金があったんだ。

渡辺 ええ。働いて返していくというレベルの額じゃなかったんで、不採算部門を閉じ、資産を切り売りすることから始めました。その傍らで、もちろん、軸足は渡辺プロ本社に置いた上で、タレントのマネジメントや番組制作についても、一から学んでいかなくちゃならなかった。

近田 やることがいっぱいだよね。晋さんの没後、スポーツ新聞が飛ばしたようにナベプロは解散こそしなかったものの、その後、社内はどう変化していったの?

渡辺 父が亡くなった後の2年間で、黒字を出していたタレントさんは、ほぼほぼ辞めていきました。それに伴って、数多くの有能なマネージャーも退社していった。

近田 ジャンルを問わず、カリスマ的な創業者を失うと、そうなりがちだよね。

渡辺 今考えれば、辞めていった人たちの気持ちも分かるんですよ。とにかく不安だったんだろうなって。当時は、辞められて本当にショックだとか、すごく困っただとか、売り上げが減るだとか、そういう面しか見えていなかったんだけど……。

近田 新たにマネジメントを手がけるタレントの傾向も、晋さんが亡くなって以降は少しずつ変わっていった気がするんだけど。その代表的な存在が、吉田栄作さんですね。

渡辺 彼は、1988年にフジテレビ主催の「ナイスガイ・コンテスト・イン・ジャパン」で優勝したんですが、スタイルもルックスもいいし、何か大きなことを言っていたので、そこに注目したんです。

近田 その時点から、大きなこと言ってたんだ(笑)。すでにキャラクターが確立してたのね。

渡辺 今っぽいんだけど、軽くなかった。自分の考えを持っていて、お人形さんじゃないんです。外見と中身にギャップがあるのが面白くって、いいなと思いました。

近田 タレントとして売り出すに当たり、確たる勝算はあったわけ?

渡辺 あの頃、光GENJIが全盛だったじゃないですか。歌って踊って、おまけにローラースケートまで履いてとなると、生半可なグループのパフォーマンスじゃ太刀打ちできない。対抗するには、逆に一人っていうのが目立つなと思ったんです。

近田 TシャツとGパンというシンプルないで立ちは、鮮烈に印象に残ってるよ。

渡辺 彼は、お馴染みのあの姿のまま現場に赴き、「じゃあ着替えてください」と言われると、こともなげに「あ、このままで大丈夫です」と答え、そのたびに相手をびっくりさせてました(笑)。

近田 いい話だねえ(笑)。

渡辺 そして、当時の私や会社が置かれてた状況も、洗いざらい栄作本人に話したんです。渡辺プロは、苦境を迎えているんだって。

近田 懐事情を正直に告白したわけね。

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