ミュージシャンとしてのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて親交を重ね、交遊してきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズがスタート。
最初にお迎えしたゲストは、日本を代表する芸能プロダクション、ワタナベエンターテインメントを率いる代表取締役社長の渡辺ミキさん。戦後の芸能ビジネスのシステムを一から築き上げた渡辺晋・美佐夫妻の間に生まれた彼女は、いかにして王朝を継承し、さらなる発展をもたらしてきたのか。第3回では、経営者としての歩みを語る。
「26歳で父を亡くし、妹とすべての関係会社の役員に」(渡辺)
近田 お父様の渡辺晋さんは、おいくつで亡くなったんでしたっけ?
渡辺 59歳でした。
近田 そんなに若かったんだ! 芸能界を牛耳る超大物というイメージがつきまとってたから、もっともっと年配なのかと思ってたよ。あれは何年のことでした?
渡辺 1987年の1月31日でしたね。映画のコピーじゃないけれど、業界が「震撼」するっていうのは、こういうことを指すんだなと思いました。
近田 あの頃は、戦後に築き上げられた芸能界そのものが若かった。だから、その礎を築いてきた主たるメンバーを失うのは、誰にとっても初めての経験だったんだよ。ゆえに、衝撃が大きかった。
渡辺 その翌日に、スポーツ新聞の1面に「ナベプロ解散」って出たんですよ。あれは、私にとって強烈なトラウマになりました。もう、周りは全員敵だとすら思いましたね。
近田 そりゃそうなるよ。その時、お母さんの美佐さんは、どんな風だった?
渡辺 これにはすごくびっくりしたんですが、自分がそれまで知っていた母とは違って、葬儀にしても何にしても、すべて私に頼るようになっちゃったんです。
近田 晋さんを亡くした喪失感は、それほどまでに大きかったってことだね。
渡辺 だから、母が渡辺プロの社長を引き継ぐこともありませんでした。両親と姉妹、そして祖母、この5本の脚で支えていた家族というテーブルが4本脚になっただけで、簡単にバランスを失ってしまうんだと痛感したものです。
近田 その時、ミキちゃんは何歳だったの?
渡辺 26歳でした。その頃、私がプロデュースを行い、近田さんに音楽監督をお願いした『3 Guys Naked From The Waist Down』というミュージカルの準備を進めていたんですが、その公演があったのが、父の亡くなった年の6月でした。
近田 あれは、そんな大変な時期だったのね。
渡辺 何とか上演を済ませ、ミュージカルへの夢は、いったんご破算にして、渡辺プロ本体での仕事を本格的に始めたわけです。私も妹も、二人揃って、父が役員を務めていた渡辺プロ関連の会社すべてに、役員として入りました。
近田 急に重責がのしかかってきたね。
- date
- writer
- staff
- 文=下井草 秀
写真=平松市聖 - keyword










