いつか、私はまたどこかへ飛んでいくかもしれない
「アワ、元気?」
「うん、元気」
「パパのこと、憶えてる? もう忘れちゃった?」
「忘れてない、忘れてないよ」
「パパ、もうおじいちゃんになっちゃったよ」
「うん。ごめんね」
パパの声は驚くほど静かで、記憶のなかの声よりもずっと弱く、老いていた。はじめてこの10年が途方もなく長い時間だったのだと思った。私が目まぐるしい日常に気を取られて生きていたあいだ、この人はこの10年、一体どういう思いで過ごしていたんだろう。
「俺、いつもはLINE見ないよ。でも久しぶりに見てみようと思ってインストールした。そしたらアワからメッセージきてた。すごく昔のメッセージだろうと思ったら、2日前だった。本当にたまたま見た。神さまだね。神さま、ありがとう」
私は、神さまは信じていない。いや、信じていないと言えば嘘だ。私は神さまについて考えないようにしていた。そんなのが本当にいたら、私はたぶん、神さまの顔色をうかがってしまう。それでも私は突然パパに連絡をしようと思い立って、パパは偶然それに気づいた。これがパパの言う神さまだったのか。私ははじめて、パパに見えている神さまを見たような気がした。神さまと電話の向こうで繰り返すパパに、私はそうだね、と返事をした。
私はふたたび娘になった。こうしてまた自由を差し出し、私は地面に降りていく。でも、不思議とそれほど嫌ではない。長いあいだ、ひとりで飛んできた。ずっと遠くまで来たつもりだったのに、たどり着いたのは、もといた懐かしい場所である。いつか、私はまたどこかへ飛んでいくかもしれない。こんな穏やかな時間は、きっと長くは続かないだろう。それでも今は、ここで少し眠っていたい。
» 前篇を読む
本連載は今回が最終回です。2026年に書籍化を予定していますので、楽しみにお待ちください。
伊藤亜和(いとう・あわ)
文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。その他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)。
Column
伊藤亜和「魔女になりたい」
今最も注目されるフレッシュな文筆家・伊藤亜和さんのエッセイ連載がCREA WEBでスタート。幼い頃から魔女という存在に憧れていた伊藤さんが紡ぐ、都会で才能をふるって生きる“現代の魔女”たちのドラマティックな物語にどうぞご期待ください。
- date
- writer
- staff
- 文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香 - category
