目の前に止めてあった電動キックボードが、急に輝いて見えた

 今悩んでも仕方のないことを考えているうち、引っ越しまであと数日というところまできた。この街で寝起きする回数も、もう片手で数えられるほどしかない。1年ほど住んだ程度では、この街がどんなところか、どんなひとがいるのか、あまり知ることができなかった。私は毎日のように自宅から駅までの10分を歩いたけれど、途中の商店街で気になる店をチラリと見るだけで入りはせず、お腹が空けば改札を出てすぐの、どこにでもあるチェーン店か、深夜の2時までやっている、きちんとした食事が出るバーに行くだけだった。この街で仲よくなれたのは、そのバーのマスターくらいだ。少し前の私ならば、物おじせずいろんな店を覗いていただろうに。私もたぶん、歳をとったのだろう。それに、結婚してさっさと引っ越したいがために、私はこの街に異様に冷たく接していたようにも思う。彼と一緒に暮らせば、私は平和のために、また少しずつ自分を危険にさらすような浮ついた好奇心を手放すだろう。タバコもやめるつもりだ。私は彼のために私を大切にしたい。あと数日。そう思ったら、目の前に止めてあった電動キックボードが、急に輝いて見えたというわけである。

 レンタルするためのアプリをインストールして、いくつかの交通ルールテストを受けると、キックボードのランプが点いた。人通りの少ない道路まで押して移動しようとして、想像以上の車体の重さに足元がふらつく。どこからどう見ても「電動キックボードに初めて乗る人」な自分が恥ずかしくて、辺りをキョロキョロ見回しながら泥棒のように背中を丸めて移動した。やっと人も車もほとんどいない大通りに出て、おそるおそるキックボードに乗り、片足で弱々しく地面を蹴った勢いに任せて手元のスイッチを押すと、モーターがヴィンと回るような音がして、キックボードが走り出した。思ったよりもスピードが出て身体がのけぞる。あわててスイッチを押す指を離して、またおっかなびっくり加速し、ふたたび減速を繰り返す。そうやって1分もしないうちに恐怖は和らいできて、気づけば私は、満面の笑みで車道を駆け抜けていた。

 すごい。こんなに楽しい乗り物は乗ったことがない。きっと空飛ぶホウキに乗ったら、こんな感覚なんだろう。たった時速10キロ程度の速度であるはずなのに、まるで宙に浮いているみたいだった。こんな楽しいものに、みんなよくすまし顔で乗れたものだ。私はキャー! とかワー! とか控えめに叫びながら、自宅をはるかに通り過ぎた駐車ポイントまで上機嫌で走り、降りた後も興奮冷めやらぬまま、スキップしながら家まで戻ったのだった。

 自由。この10年間、私は本当に自由だった。パパと殴り合って決別した18歳のあの日から、思いつく限りの無茶は全部やってしまったような気がする。飲んで遊んで騙されて、泣いたり嫌われたりしながら、この10年、東京で自分を作ってきた。まだきっと、できることはたくさんあるのだと思う。だけど今のところはもう思いつかない。たぶん、電動キックボードで最後だった。

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伊藤亜和(いとう・あわ)

文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。その他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)。

Column

伊藤亜和「魔女になりたい」

今最も注目されるフレッシュな文筆家・伊藤亜和さんのエッセイ連載がCREA WEBでスタート。幼い頃から魔女という存在に憧れていた伊藤さんが紡ぐ、都会で才能をふるって生きる“現代の魔女”たちのドラマティックな物語にどうぞご期待ください。