高校生の頃から3時間睡眠で…

近田 結局、ヤマハからはデビューしなかったんだよね。

増田 ええ、デビューできませんでした。それで、高3の時に、「君こそスターだ!」に応募して、出場にこぎ着けるんです。

近田 フジテレビで放送されてたオーディション番組だよね。

増田 当時のクッキーって、見た目が後のピンク・レディーそのままだったんです。腕も脚も露出してガンガン歌って踊ってたら、素人っぽくないだの新鮮さが感じられないだの、コテンパンに酷評されちゃって、不合格の憂き目を見ました。

近田 あらあら。

増田 その頃は高校の卒業が迫っていて、路頭に迷いかねなかった。ミーも私も、進学するつもりも就職するつもりもありませんでしたから。ある日、校内放送で「根本と増田、校長室に来なさい」と呼び出されたんです。

近田 えーと、根本というのは、ミーちゃんの名字だよね。

増田 そう。そして、校長先生から「人生はそんなに甘くない。まずは進学なり就職なりしてから歌手の夢を追えばいいだろう」と諭された。それに対し、私が「でもね、先生。二兎を追う者は一兎をも得ずとも言うでしょう」と反論した時の校長先生の辟易した顔といったら……(笑)。

近田 ちなみに、ケイちゃんの歌手志望に関して、ご家族はどんな反応だったの?

増田 伯母は、私が歌手になることには否定的だったんですよ。最初にヤマハのオーディションに通ってからも、「何が何でも高校だけは卒業しなさい」と口酸っぱく言ってたぐらいで。

近田 昔の人はそう言うのが当たり前だったよね。親心ゆえの心配だと思うよ。

増田 だから私、高校生の頃から3時間以上寝てなかったんですよ。とにかく教科書の内容を丸暗記して、しっかり試験の点数を取ってましたから。

近田 ピンク・レディー時代はろくに睡眠が取れなかったとよく耳にしたけど、高校の時点ですでに慣れっこだったんだ(笑)。

増田 それに対し、母は、私の夢を応援してくれたんです。幼い頃の私に寂しい思いをさせてしまったという気持ちがあったんでしょうね。浜松のレッスンに毎週通うための交通費も、ステージ衣装のお金も、母が全部出してくれました。

近田 2人とも、それぞれの形でケイちゃんのことを愛してたんだよ。

増田 そのおかげで今の自分があるんだと、心から感謝しています。

近田 そして、高校の卒業間際、2人は、ついに運命を決めた「スター誕生!」にチャレンジすることになるんだよね。

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増田惠子(ますだ・けいこ)

1957年静岡市生まれ。中学校の同級生であったミー(根本美鶴代)とクッキーという名のデュオを結成し、「スター誕生!」に出場、決戦大会で合格を果たす。1976年、ピンク・レディーとして「ペッパー警部」でデビュー。「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」など大ヒットを連発し、「UFO」では1978年の日本レコード大賞を受賞する。解散後の1981年、中島みゆき作詞・作曲の「すずめ」でソロデビューし、40万枚のヒットを果たす。再始動したピンク・レディーとしても、活動を続けている。2月6日(金)には、有楽町マリオン別館7F「I’M A SHOW」にて「増田惠子・ソロデビュー45th anniversary concert I Love Singing スペシャル! ~ソロシングル、カバー、そしてピンク・レディー」を開催予定。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、半世紀を超えるキャリアを総覧する『未体験白書』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。

次の記事に続く 「10cmの傷口にガーゼを詰めて武道館へ」増田惠子(6...

Column

近田春夫の「おんな友達との会話」

ミュージシャンのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて交遊を繰り広げてきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズがスタート。なお、この連載は、白洲正子が気心を通じる男性たちと丁々発止の対談を繰り広げた名著『おとこ友達との会話』(新潮文庫)にオマージュを捧げ、そのタイトルを借りている。