太陽神アポロンの息子パエトーンが、友人たちに見せつけようと父の空飛ぶ戦車に乗ったものの、うまく操縦できず、暴走してしまうお話です。パエトーンはゼウスに撃ち落とされ死んでしまうのですが、その友人キュクノスが彼の死を嘆き、悲しみ、見かねた神々が彼を白鳥の姿に変えたとも、老いてなお友人の死を悲しむキュクノスの白髪が次第に白鳥の羽になっていったとも言われています。
悲しみに打ちひしがれて、耐えられなくなってしまった彼に、神々がしたのが「白鳥に変える」というのはなんだかとても好きな展開なんです。友人を突然亡くすことの悲しみに、どんな励ましを向けたらいいのか……それは正解のないものです。

きっと昔の人もそう思ったのだろうなぁ、と私は思うんです。乗り越えようがない悲しみに、具体的な、現実の地続きの何かをもたらすのではなくて、フィクションだからこそできる美しい比喩でそっと悲しみを包み込んでいく。それは悲しみに「立ち直ること」や「忘れること」を提案するのではなく、そっとそのままにしてやりながら、その姿をほうってはおかないもので。一つの翼を与えるもので。そういう、比喩だからこそできる、悲しみへの寄り添いってあるように思います。そしてそれは、詩の役割ともとても近いと感じています。
流れ星のように加速していく心の熱量を捉える詩の言葉
――興味深い視点ですが、どういうことでしょうか?
最果 詩の言葉が、理屈や筋のようなものを飛び越えて、読み手に、夢のようなもの、星の光のようなものをそっと確信させる瞬間ってあるように思うんです。それって、具体的な励ましや対策をもたらすものではないけれど、でも、自分自身の悲しみを、苦しいけれどでも手放したくない、その悲しみと共に生きようと思っている人に、くっきりと届くものでもあるように思います。
悲しみだけでなく、人はいろんな感情を、誰にも共感してもらえなくても、理屈で説明できなくても、それでも、手放したくなくて、それを握りしめて生きていこうとすることが多くあるのかなと私は思います。そしてだからこそ、詩は読まれていくのかなぁって。
その気持ちが正しいか間違っているか、でもなく、誰かにわかってほしいとか、そういうことでもなくて、ただ自分がそれを選びたくて選ぶとき。視線の先にひとつの星がくっきり見えていて、それを目指して突き進む、流れ星のように加速していく心の熱量を捉えられるのは詩の言葉だ、と私は思っているんです。

詩は、私にとって「心が加速して光になるような瞬間」をパッととらえたもの。詩を書いていると、悲しい、大好き、さみしい……様々な感情の芯にあるものが高速に達して「光になる瞬間」みたいなものがあります。それに出会えた時、この言葉は詩になった、と私は思うんです。読む人にもその光が見えることがあるといいなって思います。自分一人だけの感情を確信する一瞬が、その詩によって芽生えたら嬉しいです。
――だからでしょうか。最果さんの詩は、どんな感情を描いていても人をエンパワーする力があるように感じます。
最果 私は、人を励ますこととか、慰めることはあまりうまくないので、詩でもそういうことができているとは思わないのですが、でも、どんなに暗く悲しい詩を書いているときも、それを見つめるまなざしの鋭さだけは失わないように書こうと心がけています。
詩の言葉が、私の中に生まれた瞬間というのは、ひとつの気持ちを貫いた“最高速度”です。その「速度」を緩めることなく、その透徹したまなざしを汚さないようできたらいいな、って。それが結果として、誰かにとって心を貫き通す力となるなら、それが詩の力なんだと信じています。
2025.10.17(金)
文=最果タヒ