私はどうしてもこの脂肪と乳腺の塊を愛すことができない
先日、会社の健康診断があった。毎度のことだけれど、マンモグラフィーは気が重い。やっていることは限りなく拷問とかそういう類に近い。看護師さんに「次はマンモグラフィーですね」と言われて検査室に入り、上裸になる。「私は乳がんを早期発見するためにきちんとやるべき検査を受けているんですよ」という「スン」とした顔をするよう心掛けているけれど、どうしたって上裸で乳房を検査機器に挟まれている様は哀れとしか言いようがない。左右の乳房を縦と横、合計4回、板でギュ~ッと挟まれる。痛い。深呼吸して痛みを紛らわす。日進月歩してきた医学には敬意を払いたいけれど、この哀れな気持ちをどこに置けばいいのか、検査室で上裸になった途端、いつもわからなくなる。放射線技師の女の人がなるべく迅速に、なるべく屈辱的でないように気を遣ってくれるのが、余計に哀しい。でも、問診の時にマンモで撮った乳房レントゲン写真を見せられて、「特に問題なさそうですね」と言われると、他の部位に異常がなかったときよりも1.5倍くらい安心する自分もいる。ギュウギュウ挟み込まれて痛かった感覚がまだ残る胸をホッとなでおろす。
受益者不在の乳房は、私の身体に張り付き、自由な動きを妨げ、いつか病気を引き起こすかもしれない塊として、今この文章を書いている最中もPCに伸ばした両腕の間にいる。とくに愛着を感じたことはないけれど、でも他の部位より少し気がかりだったりもする。親戚のおばさんは、だいぶ歳をとってからだったけれど乳がんで亡くなった。いつかこの部位から私の死がやってくるのかもしれない。他の臓器が病気になることだってもちろんあるだろうけど、毎日目に見えるところにあって、「女の記号」の一つとして眼差され、でもとくに活用する予定がなく、いつか死をもたらすかもしれない存在というのは、「人生とはままならないものである」ということの象徴のようだ。
「自分の身体をありのまま愛そう」という潮流からは逆行するけれど、私はどうしてもこの脂肪と乳腺の塊を愛すことができない。「自分の身体をそんな風に言わないで」という言葉は全く的外れで、大事なのは「私が何を大事に思い、何を大事ではないと判断するか」なのではないか。乳房を「どちらかと言うと要らないもの」と思って生きることが、「私がどんな私であるか」を決定づけている。だから多分これからも「めんどくさいな」と思いながらもこの脂肪の塊×2を抱えて生き、しれっとタオルで隠してコンビニに行ったりするのだろう。それがこの身体を付与されて生きていくことへの「抵抗」なのか、自分の女性性からの「逃避」なのかは、自分でもまだ、わからないでいる。
月岡ツキ(つきおか・つき)
1993年生まれ。大学卒業後、webメディア編集やネット番組企画制作に従事。現在はコラムニストとしてエッセイやインタビュー執筆、既婚子育て中の同僚とPodcast番組『となりの芝生はソーブルー』を配信するなど多方面で活動。 マイナビウーマンにて「母にならない私たち」を連載中。著書に『産む気もないのに生理かよ!』(飛鳥新社)。
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編集部が注目している書き手による単発エッセイ連載です。
(タイトルイラスト=STOMACHACHE.)
2025.09.19(金)
文=月岡ツキ