生涯にわたってブラジャー装着の刑に処されている

 人はなぜ、脂肪と乳腺の塊に過ぎないこの部位に、その本来の機能以外の意味や価値を見出すようになったのか。男性のそれは露出していても咎められない。実際、近所の公園では上裸の男子がスケボーをしているし、住宅街の縁側で涼む上裸の爺さんを見かけることもある。しかし、女のそれは露出して外を歩こうものなら即通報・もしくは盗撮されSNSで晒されて人生が軽く終わる。運良く人生が軽く終わらず済んだとしても、そもそも生涯にわたってブラジャー装着の刑に処されているうえ、小さければバカにされ、大きければジロジロ見られ、垂れたり萎んだりすればまたバカにされるのだ。なぜ他人の脂肪と乳腺の塊についてそんなにパッションを燃やせるのだろう。その熱意を発電とか、ボランティアとかに充てるべきではないだろうか。

 そんなわけで私は最近、わりと真剣にブラジャーを、もっと言えば乳房自体を「脱ぎたい」と思っている。

 「子供は産まなくていいかもな」と思ったとき、それでも生理が毎月来るのが非常にうっとうしいので、いっそ子宮がなくなったら楽かもしれないな、と想像した。そしてこの間ふと気づいたのだ。「子供を産まないのであれば、乳房も要らないのかもしれない」と。

 これまで長らく「当たり前にあるもの」として乳房を認識し、「仕方ないもの」としてブラジャーを着けて(あるいは着けずにやり過ごして)きたけれど、よくよく考えればこの部位の利用者は自分の子だけであって、私本人にとっては別に無くても困らないのである。利用者がこの世に発生しそうにないのなら、一体なんのためにこの脂肪の塊×2を装着して生きているのか。同じ脂肪でも、ラクダのコブのように栄養を蓄えておく機能があるならまだしも、そうでないならこれは一体なんのためにあるんだろう。私はとくに使い道のない部位を保護するために、終身ブラジャー装着の刑を執行され続けている。

 人類が女の脂肪と乳腺の塊について余計なパッションを燃やさなくなり、ただの脂肪と乳腺の塊としてそれ以上でも以下でもないとみなすようになれば、私もTシャツ一丁でコンビニに行けるようになるだろう。

 しかし、仮に乳房がどのように眼差されるかが変わったとしても、物理的に邪魔であることに変わりはない。走ったり、うつ伏せになるときに痛いし、動きにくいのだ。よく使われる(よく使うな)「まな板」という揶揄の言葉があるけれど、胸部が平板な方が生活しやすいに決まっている。夫を見ていると、脂肪がつきにくい直線的な身体というのはなんて身軽なんだろう、といつも思う。

2025.09.19(金)
文=月岡ツキ