こうした特異性から、『大穴』はシリーズ初期における大きな飛躍であり、ブレークスルーだったと考える。十数年後の『利腕』でシッド(とチコ)が再登場するのには、それなりの理由があったのだ。『利腕』でシッドは、左手に加えて右手まで失うかという恐怖を味わう。この点の解釈については北上次郎氏の『利腕』文庫版解説に(とど)めを刺すので、そのまま引用したい。

 七〇年代の冒険小説が失っていたヒーローの肉体を、ディック・フランシスは恐怖という入口から入り込んで描いて見せたのである。大自然や凶悪な組織と闘う時代が過ぎ、敵を見失って形骸化されていた冒険小説に、己れの裡にひそむ弱さを克服する重要な闘いがあることを巧みなストーリー展開の中に示して見せたのである。

 ではなぜ、その記念すべき闘いの復活にシッド・ハレーが選ばれたのか。

 それはおそらく、ディック・フランシスの描いた主人公の中でシッド・ハレーが“恐怖心”にいちばん近い位置にいたからではなかったか。誇りを持ち、ストイックで意志強固な男は他にもいる。だが“恐怖心”ということであれば、彼こそが最短距離だ。

 旧シリーズで次にシッドが登場するのは『敵手』だ。フランシス作品では総じて「敵」が早めに現れる。フーダニットより、真相が見えてきてからのアクションに重点が置かれるからだが、『敵手』はその極端な例と言えるだろう。

 父フランシスによるシッド・ハレー四作目は『再起』。それまでほぼ一年一作のペースで書きつづけていたのが、メアリ夫人の逝去から六年間、新作発表がなく、断筆が心配されたなかでのまさに「再起」だった。そういう作品の主人公にシッドはいかにもふさわしい。

 前置きが長くなった。「新・競馬シリーズ」のフェリックス・フランシスは、本書でまたシッド・ハレーを登場させた。父フランシスの作家人生の節目で大事な役目を果たしてきた主人公である。いつか書きたいと思っていたのかもしれない。

2025.05.21(水)
文=加賀山卓朗