今回、シッドは四十七歳になるところで(現実世界の時間経過とは一致しない)、『再起』で初登場したマリーナ・ファン・デル・メールとの結婚後、サスキア(サシイ)という愛娘が生まれている。シッドを攻撃すると、あきらめるどころかさらに強く立ち向かってくることを知った悪人たちは、脅迫のためにシッド本人ではなくマリーナや、気心を許した義父チャールズを狙うようになり、それを避けたい彼は探偵業から引退して、金融取引で生活の糧を稼いでいた。そこに英国競馬統括機構会長のサー・リチャード・スチュアートが訪ねてくる。
サー・リチャードは、いくつかのレースで不正がおこなわれていると確信していた。が、自分の組織の保安部で相手にされなかったので、個人的に調査を依頼しに来たのだった。シッドは、もう調査はやめたときっぱり断るが、続く出来事で家族ともども否応なしに事件に巻きこまれていく。ほどなくマンチェスター方面に凶悪な存在が見えてきて……と王道の展開だが、手慣れたもので、物語がストレートに胸に迫ってくる。父親に勝るフェリックスの美点として、バランス感覚があげられよう。どの作品でもキャラクターやプロットがバランスよく配置され、流れが滞ることがない。必要なところには的確な説明も入り、初めての読者にも親切な設計になっている(もっとも、父フランシスの場合には多少バランスを欠いたところが独特の魅力になったりもするので、一概に良し悪しは言えない面もあるが)。加えて本書では、シッドの左手の義肢(武器としても使ってきた)に関する新たな展開もある。巻末の医師のひと言には誰もが驚くはずだ。
本作の原書を初めて読むまえに、じつはふたつのことを祈っていた。ひとつはシッドがまた馬に乗ること(『大穴』でのあの騎乗!)、もうひとつはおなじみのあの人物が出てくることだ。そのうちひとつは叶ったと報告しておく。クライマックスをグランドナショナルに持ってきたのも心憎い演出だ。父フランシスは騎手時代に三百五十勝以上をあげたが、グランドナショナルだけには勝てなかった。息子がそのカタルシスをここでシッドに託したようにも思える。
2025.05.21(水)
文=加賀山卓朗