本書『覚悟』は、フェリックスによる新シリーズの三作目にあたり、シッド・ハレーものとしては父親の代も含めて五作目となる。

 さて、シッド・ハレーについて。旧シリーズで「一作一主人公」の原則に反する男がふたりいると書いた。まず、キット・フィールディングは『侵入』(第二十四作)と『連闘』(第二十五作)に連続出場しているが、どうやら当時はディックがある有名騎手の伝記を書いていてこちらにまわせる時間がなく、やむなく慣れたキャラクターを再利用したらしい(『ベストミステリー大全』[北上次郎著、晶文社]参照)。創作的必然性はあまりなかったようだ。

 シッド・ハレーはちがう。『大穴』で初登場した彼は前三作の主人公からかけ離れている。『本命』の主人公は裕福なアマチュア騎手、『度胸』(第二作)は上り調子のプロ騎手、『興奮』(第三作)はオーストラリアの牧場主。それに対してシッド・ハレーは、冒頭から左手に重傷を負って引退を余儀なくされた()騎手で、探偵社で働いている。妻ジェニイとの結婚生活もうまくいかず、事件の調査中に腹に銃弾を受けて入院。自暴自棄に生きていて、自己肯定感はゼロ。要するに、スタート地点がそれまでの主人公より明らかに低く、重すぎるハンデを背負っている。

 小説的には、気力体力でまき返さなければならない距離が長いほど苛烈なドラマが生まれ、すべてを克服したときの達成感も大きい。顔に傷のある女性との淡いロマンスも、この設定でなければ成り立たず、シッドの高潔さを際立たせている。前作『興奮』でハウダニットの金字塔を物したあとだから、『大穴』では心機一転、思いきった主人公を考案したのではないかと推察するが、ともあれそこから異色のヒーローが生まれた。

 他作品とのちがいをもうひとつ。シッドが働く探偵社の同僚チコ・バーンズの存在も大きい。いわゆるバディものは探偵小説の一類型だが、シッドとチコの愉しい会話は重要なコミックリリーフになっている。これもそれまでにない新たな試みだった。

2025.05.21(水)
文=加賀山卓朗