魏の国王・曹操が建安二十五年(二二〇年)に死去すると、曹丕が跡をつぎ、やがて皇帝となる。そこで後漢時代が終わり、三国時代が始まった。

 私利私欲がない、情の人である曹真は、曹丕の死後、曹叡(そうえい)の時代にまで生き残り、大司馬という特別の地位にまで登りつめた。三国時代の核心を生きた武将だった。

 本書の目次の最後に置かれた鄧艾(とうがい)は、さらに時代が下って、曹芳(そうほう)皇帝のもとに生きた将軍である。鄧艾自身はわりあいにゆっくりと、出世の階段を登っていった人である。彼は「済河(せいか)論」を書き、魏領の新しい屯田と運河開発の必要を説いた。それを読み、実現に踏み切ったのは、政治の中心にいた司馬懿(しばい)である。そして鄧艾四十五歳のときこの運河は開通した。これは魏の富国強兵を推し進めるのに大きく寄与した策となり、鄧艾の力が認められる契機にもなった。

 軍人として鄧艾の敵となったのは、蜀の将軍である姜維(きょうい)である。策の多い姜維の詐術を鄧艾が見破るエピソードなどは、いかにも三国時代らしい姿を語っているかのようでもある。

 曹丕の死後になると、魏のあり方にも変化が大きい。しだいに曹氏の力が衰え、司馬氏が実権を徐々に握っていくのである。五代目の皇帝曹奐(そうかん)の時代、鄧艾は蜀の都である成都を攻めて、ついに蜀を降伏させる。蜀の譙周(しょうしゅう)たちから印綬と書翰を受けとった鄧艾は、蜀を征服したことになる。そして譙周に師事している陳寿が晋の時代になって歴史書『三国志』を書くのだから、時代はまさに煮つまっている。二六五年、魏の司馬炎は皇帝となって晋王朝を建てたのだから、そこで三国時代は実質的に終わっているというべきだろう。

 三国時代の中心にいた魏。そこで活躍した名臣たちの姿はじつに多彩で、派手やかでもある。宮城谷氏は、その華やかさを静かで緻密な文章で正確に描き切った。描かれた名臣たちは、生きた姿をあざやかに伝えた後に、ひとりまたひとりと、歴史の中に返ってゆく。

三国志名臣列伝 魏篇(文春文庫 み 19-49)

定価 803円(税込)
文藝春秋
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2024.07.20(土)
文=湯川 豊(文芸評論家)