程昱は八十歳で死んだ。息子の程武(ていぶ)は、父親はなぜあれほど劉備を恐れ、憎んだかと自問し、「父上は劉備に似ていた」のだ、と思い当る。ともに奇妙な「無垢の人」であったというべきか。

 次に鍾繇(しょうよう)をとりあげる。鍾繇という名臣もまた、不運の経歴をふみながら最後に曹操にめぐりあい、曹操に認められて名をなすに至った。この人物が興味深いのは、古代人の雰囲気を身におびていることである。

 十七歳のとき族父である鍾瑜(しょうゆ)に連れられて洛陽にのぼり、この首都を見学する。その折に「相者(そうじゃ)」すなわち人相見に観相され、「貴相がある」と予言された。もう一つ記憶さるべきは、族父に「よく、土を踏んでおくように」と示唆されて、手で地面を叩いて地の神に祈りをささげたことである。以後、大事な土地に足を踏み入れたときは、必ず地神にそのことを知らせ、祈ることをおこたらなかった。

 郷里の長社県に戻るといっそうに勉学に励み、「孝廉(こうれん)」という二十万人に一人という人材登用の選挙科目に選ばれた。後漢の高級官僚になる道についたことになる。

 しかし官途についた鍾繇に不運が続いた。西方の梟雄(きょうゆう)ともいうべき董卓(とうたく)が洛陽を支配していたり、董卓の死後も共に進むべき人物に出会わなかった。最後に曹操に拾われて、ようやく官吏としての力を発起し、ついには太傅(たいふ)という上公につく。

 その間も地面を叩いて地神に祈りつづけて、鍾繇はいう。「信ずるということは、理屈の外にあり、それゆえにふしぎな力をもっている」と。古代人がそうしたように、地神を信じて八十歳の生涯を閉じた。

 曹真(そうしん)を語る章は、名臣列伝中もっとも劇的といってもいい。若くして曹丕(そうひ)の従者となり、魏の武将の中心に居つづけた。

 少年時代、父の仇と思いつづけた男に死なれ、思い余ってあたりの草を切りつづける。それを二人の親友にいさめられる場面は心に残るほど美しい。早くに死に別れることになる曹遵(そうじゅん)朱讚(しゅさん)の友情が、曹真を情義の人として育てたかのよう。曹真は、兵の中でいちばん後に食事をし、いちばん後に眠る武将になるのである。

2024.07.20(土)
文=湯川 豊(文芸評論家)